SSブログ

当主の随想ー6- [吉村家住宅あれこれ]

 前栽に面した、畳縁「鞘の間和む」で客と対座するときが、

私にとってもっとも心の休まり、和むひとときというか、

わが家にいるという実感を味わう時となって久しい。


かってここで、伊藤忠太博士は「古くてモダンな家だ」と

もらされたという。それを語り草にしていた父も既に亡き数に

入った。復元以前のわが家を知る者は私と妹の二人になった。

住居であった昔はやがて語り草としても伝わらなくなる。

そう考えると、わが家にかぎっては「復元修理」はまことに

価値あり、意義ある修理であった。


家は住み継いで維持すべきだ。別棟に住んでいては年々歳々

愛情が薄れ、民家の保存には望ましくない結果を生じやすい。

と考えるならば、一歩譲って、伝建地区、いわゆる町並み

保存地区のように、一定基準の下での内部改造、増築(仮設

工事として)を認めることはどうであろう。

重文民家の過半数を占める個人所有者は、文化財の名の下に

私権を制約される一方、補助は最低限にも満たぬ状況に追い詰め

られている。

ここ数年の間に重文民家の集いから10名の減、公有化の事実

がある。それが時の流れによる必然の帰結とされるなら何おか

いわんやであるが、

民家とは所有者のの心が通ってこそが真実ならば、せめて施策

に弾力性があってほしいものである。同じ思いを持つ全国の

所有者に代わって、重ねて行政当局に望みたい。同時に心ある

方々のご支援を心からお願いするものである。


想い余って筆の滑ったところも多々あるが、微衷に免じて何卒

寛恕されたい。


(全国重文民家の集い代表幹事)

                                                                         昭和60年2月1日 日本美術工芸


当主の随想ー5- [吉村家住宅あれこれ]

 居室部中央の仏間に今も神仏を祀るのは、われわれ家族の

心意気の表われでもある。

修理前にこの部屋で、解体修理担当の浅野清博士と対談し、

「復元修理の意義と価値ある保存修理」に関するお話を聞き、

とても感動した。お話の内容を今もなを昨日のことのように

思い出す。

素材の古さより、様式の古さを伝えることの意義は、年とともに

深く理解できるようになったが、わが家以降の民家修理がすべて

「復元第一」でなされているように見えるところから、疑問が

出てくるのである。


100%の復元は恐らく不可能であろうし、修理後も住み伝えたい

と望む所有者家族もあろう。 とすればもっと弾力性のある方向

も必要でないか。監督官庁としての方針を主体とするばかりでなく、

所有者と対等立場で話し合う姿勢、という面がもっと強く前面に

出てこないものかと行政当局に要望したい思いも生じる。

現実には補助を受ける立場としての所有者はまことに弱いもので

あるだけに・・・


さまざまの想念を抱きながら客室部に入ると、皮肉なことに、

殆ど立ち入りを許されなかった幼いころの記憶のままにここに

残っている。


面取りの床柱、壁面の絵、襖の絵、杉戸の絵、透かし彫りの欄間、

付け書院の銅鑼、襖の引手や釘隠し、障子の桟に至るまで、

さりげなく変化の妙を見せながら、全体としては簡素な趣を湛え

ている。これが数寄屋風書院造りの手法だろう。

細部にまで意匠を凝らしながらも、おおらかな骨太い造形感覚で

貫いた構成に、言い表しようのない魅力を感じる。

このようなのびやかさを楽しんだ人を先祖に持つことを誇りにも

思い、またこれを守ることの喜びを感じる。

                        

                                 (続く)







当主の随想ー5- [吉村家住宅あれこれ]

 居室部中央の仏間に今も神仏を祀るのは、われわれ家族の

心意気の表われでもある。

修理前にこの部屋で、解体修理担当の浅野清博士と対談し、

「復元修理の意義と価値ある保存修理」に関するお話を聞き、

とても感動した。お話の内容を今もなを昨日のことのように

思い出す。

素材の古さより、様式の古さを伝えることの意義は、年とともに

深く理解できるようになったが、わが家以降の民家修理がすべて

「復元第一」でなされているように見えるところから、疑問が

出てくるのである。


100%の復元は恐らく不可能であろうし、修理後も住み伝えたい

と望む所有者家族もあろう。 とすればもっと弾力性のある方向

も必要でないか。監督官庁としての方針を主体とするばかりでなく、

所有者と対等立場で話し合う姿勢、という面がもっと強く前面に

出てこないものかと行政当局に要望したい思いも生じる。

現実には補助を受ける立場としての所有者はまことに弱いもので

あるだけに・・・


さまざまの想念を抱きながら客室部に入ると、皮肉なことに、

殆ど立ち入りを許されなかった幼いころの記憶のままにここに

残っている。


面取りの床柱、壁面の絵、襖の絵、杉戸の絵、透かし彫りの欄間、

付け書院の銅鑼、襖の引手や釘隠し、障子の桟に至るまで、

さりげなく変化の妙を見せながら、全体としては簡素な趣を湛え

ている。これが数寄屋風書院造りの手法だろう。

細部にまで意匠を凝らしながらも、おおらかな骨太い造形感覚で

貫いた構成に、言い表しようのない魅力を感じる。

このようなのびやかさを楽しんだ人を先祖に持つことを誇りにも

思い、またこれを守ることの喜びを感じる。

                        

                                 (続く)







当主の随想ー4- [吉村家住宅あれこれ]

 大戸口のシンプルな冠木を仰ぎつつ敷居を越えれば、夏でも

ひんやりするほどの薄暗い空間がひろがる。竹すのこの 土天井

を縦横に走る大小の梁が支え、奥の釜屋に至るまでが柱無しの

土間となっている。


この見事な空間の拡がりの片隅に、さりげなく小さな 吊り部屋

を設け、その取り付け梯子に、壁面の装飾を兼ねさせている工夫は

実用一点張りでなく、実に巧みな演出である。いい意味での遊び心

がくみ取られ、おおらかなゆとりを持った構成間隔が窺われる。


それはまた、煙突を省略した「かまど」の機能的、効率的な造形

にも、古人の生活と知恵が結びついたデザインとして表われている。


約二十坪ほどの空間を広々と開放した土間向こうには、さっきの

吊部屋を左に備えて、広敷の板敷が伸びている。その中央に根を

生やしたように透かし彫りの衝立が収まっている。

実はこの衝立は、昔は土間の中仕切りの上にあった欄間なのだ。

これを見る時いつも思い出すのが、消え去って久しい昔の台所部分

である。


煙りと煤と蜘蛛の巣と、立ち働いていた人影が今も眼前に浮かぶ。

しかし同時に「復元修理」(*2)という修理方法への大きな疑問

も生じる。

それは家族達から住む家を奪い、「わが家」を日々遠い存在に

してゆくマイナス効果も持つからだ。そしてその後遺症が次の

世代により強く影響するだろう。古い時代の記憶が消えゆく現在、

マイナス効果への認識がより大切でなかろうか。


 居室部はまさに、江戸初期の農家を再現した感じで、竹簀子

の天井の下、素朴なあたたか味のある趣を見せ、実用に徹した

構造の力強さを示している。

   

(:2)民家などを解体修理する際、「復元修理」と「現状修理」の二つの考え方の

            修理方法 が考えられる

    前者は建築した当初の形に戻して復元する。後者は建築当初の形式が使用上不都合

           になり、増改修を繰り返すことによって、形に変化があり現在の形になっている。

           その姿のままに修理する考え方。


                                                                                                (続く)

    

当主の随想ー4- [吉村家住宅あれこれ]

 大戸口のシンプルな冠木を仰ぎつつ敷居を越えれば、夏でも

ひんやりするほどの薄暗い空間がひろがる。竹すのこの 土天井

を縦横に走る大小の梁が支え、奥の釜屋に至るまでが柱無しの

土間となっている。


この見事な空間の拡がりの片隅に、さりげなく小さな 吊り部屋

を設け、その取り付け梯子に、壁面の装飾を兼ねさせている工夫は

実用一点張りでなく、実に巧みな演出である。いい意味での遊び心

がくみ取られ、おおらかなゆとりを持った構成間隔が窺われる。


それはまた、煙突を省略した「かまど」の機能的、効率的な造形

にも、古人の生活と知恵が結びついたデザインとして表われている。


約二十坪ほどの空間を広々と開放した土間向こうには、さっきの

吊部屋を左に備えて、広敷の板敷が伸びている。その中央に根を

生やしたように透かし彫りの衝立が収まっている。

実はこの衝立は、昔は土間の中仕切りの上にあった欄間なのだ。

これを見る時いつも思い出すのが、消え去って久しい昔の台所部分

である。


煙りと煤と蜘蛛の巣と、立ち働いていた人影が今も眼前に浮かぶ。

しかし同時に「復元修理」(*2)という修理方法への大きな疑問

も生じる。

それは家族達から住む家を奪い、「わが家」を日々遠い存在に

してゆくマイナス効果も持つからだ。そしてその後遺症が次の

世代により強く影響するだろう。古い時代の記憶が消えゆく現在、

マイナス効果への認識がより大切でなかろうか。


 居室部はまさに、江戸初期の農家を再現した感じで、竹簀子

の天井の下、素朴なあたたか味のある趣を見せ、実用に徹した

構造の力強さを示している。

   

(:2)民家などを解体修理する際、「復元修理」と「現状修理」の二つの考え方の

            修理方法 が考えられる

    前者は建築した当初の形に戻して復元する。後者は建築当初の形式が使用上不都合

           になり、増改修を繰り返すことによって、形に変化があり現在の形になっている。

           その姿のままに修理する考え方。


                                                                                                (続く)

    

当主の随想ー3ー [吉村家住宅あれこれ]

 母屋との間の前庭には砂を敷き詰め、大戸口への斜めの石畳

以外は空白であるが、かっては作業場、集会所として格好の場

であったろう。斜めの石畳は前庭のよきアクセントであり、母屋

への距離感を強調し、また母屋を眺める上で絶好の視座を提供する。


その起点に立てば、母屋は少し斜めに全容を見せる。七三の比は

人の顔ばかりでなく、建物に対する角度でもすばらしく、

ここから見る母屋はまさに見事な均衡を保っている。ずっしりと

量感はありながら少しも威圧的でない。近代的ともいえる建築美

を示す。大和棟の切妻部分が小気味よく、茅葺、瓦葺の対比する

屋根、それを支える軒下との構成もすっきりしている。

また、大戸口から左右にひろがる壁面は、直線構成が、モンドリアン

の作品を思わせる近代性を見せている。

私自身、わが家はいいなと思って眺めるのはこの時である。


このような簡潔な構成を400年近く前に作り上げた棟梁たちの

眼と腕の確かさに敬服する。


                                     (続く)







当主の随想ー3ー [吉村家住宅あれこれ]

 母屋との間の前庭には砂を敷き詰め、大戸口への斜めの石畳

以外は空白であるが、かっては作業場、集会所として格好の場

であったろう。斜めの石畳は前庭のよきアクセントであり、母屋

への距離感を強調し、また母屋を眺める上で絶好の視座を提供する。


その起点に立てば、母屋は少し斜めに全容を見せる。七三の比は

人の顔ばかりでなく、建物に対する角度でもすばらしく、

ここから見る母屋はまさに見事な均衡を保っている。ずっしりと

量感はありながら少しも威圧的でない。近代的ともいえる建築美

を示す。大和棟の切妻部分が小気味よく、茅葺、瓦葺の対比する

屋根、それを支える軒下との構成もすっきりしている。

また、大戸口から左右にひろがる壁面は、直線構成が、モンドリアン

の作品を思わせる近代性を見せている。

私自身、わが家はいいなと思って眺めるのはこの時である。


このような簡潔な構成を400年近く前に作り上げた棟梁たちの

眼と腕の確かさに敬服する。


                                     (続く)







当主の随想ー2- [吉村家住宅あれこれ]

  現在の屋敷構えは、江戸期の 内屋敷 に当たる部分であるが、

約1600坪にわたって、外堀、介在山林、客室部庭園、等

を含め、母屋・客室部、長屋門、土蔵の四棟を、土塀で囲ん

構成である。そのすべてを現在では重文の指定を受けている。


建物の内、最も古い母屋・客室部が元和初頭の建設と推定され

る、長屋門、土蔵は寛政10年の改築である。

いずれも昭和の解体復元、または半解体の保存修理を終えて

三十余年、十数年を経ている.


何分にも建物は、大家族時代の遺物だから、現在では到底手が

回りかねて、ご先祖様には申し訳ないけれど最低限の手入れしか

できてない。


もともと個人ではどうにも十分な維持保存ができないからこそ 

指定を受けているので、これが当然と言えばいえる。心中まこと

に無念やるかたない思いでもある。


それはそれで、まずはわが家の建物たちのご紹介を。私なりの主観

をあえて貫きながら申し述べてみよう。


  平生は締め切っている長屋門だが、そのくぐり戸からお入り頂く

こととする。

総茅葺、入母屋のこの建物は、農村の長屋門としては古いそうで

、全体の趣がどことなく数寄屋を偲ばせる。例えば、庇の裏の

軒垂木の丸竹がリズミカルに配置されてあったり、くぐり戸が

片引き戸になっていて、門脇の供侍部屋に滑り込むようになって

いたり、いかにも当時の文化水準を物語るようだ。


                           (続く)

当主の随想ー2- [吉村家住宅あれこれ]

  現在の屋敷構えは、江戸期の 内屋敷 に当たる部分であるが、

約1600坪にわたって、外堀、介在山林、客室部庭園、等

を含め、母屋・客室部、長屋門、土蔵の四棟を、土塀で囲ん

構成である。そのすべてを現在では重文の指定を受けている。


建物の内、最も古い母屋・客室部が元和初頭の建設と推定され

る、長屋門、土蔵は寛政10年の改築である。

いずれも昭和の解体復元、または半解体の保存修理を終えて

三十余年、十数年を経ている.


何分にも建物は、大家族時代の遺物だから、現在では到底手が

回りかねて、ご先祖様には申し訳ないけれど最低限の手入れしか

できてない。


もともと個人ではどうにも十分な維持保存ができないからこそ 

指定を受けているので、これが当然と言えばいえる。心中まこと

に無念やるかたない思いでもある。


それはそれで、まずはわが家の建物たちのご紹介を。私なりの主観

をあえて貫きながら申し述べてみよう。


  平生は締め切っている長屋門だが、そのくぐり戸からお入り頂く

こととする。

総茅葺、入母屋のこの建物は、農村の長屋門としては古いそうで

、全体の趣がどことなく数寄屋を偲ばせる。例えば、庇の裏の

軒垂木の丸竹がリズミカルに配置されてあったり、くぐり戸が

片引き戸になっていて、門脇の供侍部屋に滑り込むようになって

いたり、いかにも当時の文化水準を物語るようだ。


                           (続く)

当主の随想 Ⅰ ー1ー [吉村家住宅あれこれ]

 

当主が94歳で亡くなって、一年経ちました。

この一年の間、遺品整理をしたりして 懐かしんでおります。


当主が時折 各所に書き残している文書などを読み返すうちに、

もう一度皆さんにも 読んで頂ければと思いがつのり、

一部をブログに転載することを考えました。週2回程度に順次

掲載します。


読みにくいところもありますが、できるだけそのまま転載致します。

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・


  「重文民家の記」ー指定五十周年を迎えて   吉村 堯


    (「日本美術工芸」569号 昭和61年2月1日)


 民家としては初めての指定文化財指定(*1)を、わが家が受けて

から五十年が巡ってきたのを機会に、代々の家族達よりはるかに

長く生きてきたわが家足跡を振り返ってみたい。

もとよりその道に携わる者でもなく、古民家を研究している

わけでもないから、単に わが家の紹介におわりそうであるが、

少なくとも「内なる者」としての私の実感だけは行間ににじむで

あろうと思う。


山からも海からも遠い、河内平野の南部、かっては典型的な農村

地帯であり、日照りの年の水争い以外は眠っているように平和で

あったろう村々のひとつ、河内国丹北郡島泉村がわが家の所在地

である。

東端に雄略天皇陵の円墳を有するこの村は、古く条里制の昔から

存在していたことが実証されている。


わが家の遠い昔の系譜については、伝承する記録の中には残って

いない。

郷土史家の説などによるしかないが、かって大塚山古墳を居城と

していた一族が織田信長の河内攻めにあって、刀を捨て帰農した

ものであるとされている。


後、天正年間には島泉政所(まんどころ・のちの庄屋)を、天領

時代は庄屋を、享保年間よりは丹北郡十八カ村の大庄屋を兼ねて

幕末に至ったことは家蔵文書に明らかである。


(*1 吉村家住宅は旧文化財法で昭和12年に、民家で最初の国宝指定。

           新文化財法で昭和25年に重要文化財に指定)


                                         (続く)