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当主の随想Ⅱー5- [吉村家住宅あれこれ]


大正の末、大家族の紐帯であり、私達外孫のアイドルでもあっ

祖母が急逝してから祖父は俄かに気落ちしたようであった。


叔父 松坪のひたむきな孝養と、赤松の画業への執念が赤松を

立ち直らせた。


しかし、祖父の愛は、離れ住むことの久しい一人娘である

私たちの母に傾斜していった。

そしてついに、昭和の初年、京都下賀茂に隠棲していた私の

父母の近くに、比叡山を望む借家を 仮住まいの場所ときめ、

お手伝いを連れて祖父は移り住むことになった。

 僅か三カ月程であったが。


生家を離れて他郷に住むなど、祖父の生涯にかってなかった

ことである。

嫁してのち、子供たちのように自由に生家に往来できなかっ

た母にとってもまた、このことは父との千載一遇の機会であ

った。

 祖父と母とは毎日のように会った。


母とは一回りも年が違うたった一人の弟で、私たちも生涯

「兄ちゃん」と呼び続けた叔父 松坪もまたしばしば二人の間

に介在して、母の背を撫で、肩を抱くようにして、二人の逢瀬

を助けた。


三人とも天上にあるいま、束の間とは言え、おそらく酔うよう

至福の境地に、親子,姉弟をおかしめてくれたであろう、

あの瞬間、瞬間について、神々に感謝しないではいられない。


心臓の悪かった母はその後二年足らずで四十九年の短い命を閉

じるのだが、逆縁に遭うことになった祖父の落胆は、はた目に

無残であったらしい。


二年半ののち娘のあとを追うことになるのだが、

それにも拘らず気力をふるって、終焉の直前まで絵を描き続け、

ひととき画業を止めたことは聞かなかった。


それどころか、筆力はいよいよ充実し、絶筆となった、松を描

いた屏風の水墨は、絵を解しない私にも感銘を与えるほど雄渾

あった。

それは祖父の死の床をめぐってさかしまに置かれていたが、

南画と共に生き抜いた祖父の生涯の象徴のごとくであった。


ちなみに「吉村家歴代画業展」に出展された遺作のうち

「柳蔭垂釣」と題する晩年の南画は、私が祖父の傍らで墨を

すり、描いてもらったものである。

「お前には勿体ない」と言って、赤松翁の絵を誰よりも愛でた

私の亡父に横取りされていたものである。

               (関西国際空港ビルデイング社長)





 



当主の随想Ⅱ-4- [吉村家住宅あれこれ]


(続いて、同記念文集に寄稿の一人より)



        回 想 の 赤 松 翁    

                里 井 達三良 (赤松の孫) 


 私の兄弟誰もがそうであったが、とくに私は物心ついてから

小学校に上がるまでの期間の殆どを、われわれが「河内」と

呼んでいた、母方の祖父の家で過ごした。

たまさか、「和泉」の生家へ帰ると、自然に河内弁が出て、

皆から「河内の子」とからかわれたりした。

「河内」は私たち外孫の宝であったし、「河内」でのお目当て

祖母叔父松坪(ショウヘイ)とであった。


終日「臥遊軒」と呼ばれた離れの画室に端座して画業に精進

する祖父赤松(セキショウ)は、子供心にも苦手であった。

国宝に指定され、解体復元されて今は無くなった懐かしい大き

な台所に君臨して、大家族の家計を切りまわしていた強く優し

い祖母の周辺には、いつも花園のようなかぐわしいふんいきが

漂っていた。

この花園と凛然たる画室との間を常に連携するのは、

「愛情の人」叔父松坪だったのでである。


幼いころの私の記憶に残る祖父赤松の最初の俤は海軍士官の

よう制服に短剣を吊った長身痩躯の、陵墓官としての姿で

あった。


祖父は時折、人力車に乗って近くの雄略帝陵をはじめ近隣の

御陵を見回っていたようである。私は雄略天皇陵の堀の前の

坂道を人力車帰ってくる祖父を迎えに出た記憶がある。


また陵墓官時代の祖父の有名な逸話として、明治天皇が御陵

巡拝に行幸された折、慣れない敬礼の仕方に迷い、左右の手を

一挙にあげたというユーモラスな話が伝えられている。

天皇を尊崇する念の強烈であった祖父としては、千慮の一失で

あったろう。(*1)


祖父は尊王の志が篤く、国学者のように謹厳な人であったが、

一面ユーモアを解する人だった。

年中火鉢に炭火を活けて玉露をたしなみ、夜は晩酌を楽しん

だが、時折呼ばれて、汗をかきながら苦い茶を飲まされ、話の

相手をさせられることがあった。中学生のころだったか、

おもしろい話はないか、というので、落語で聞いた相撲の話を

したことがある。

 「関取、関取、今場所の相撲はどうでごんした。-勝ったり

負けたりでごんした。-それは結構なことでごんしたな。

ーいやいや、 向こうが勝ったり、こちらが負けたりでごんし

た」というようなやりとりが重ねられて、「今場所は土つかず

でごんした。-休んでばかりでおりゃんした」

で終わる 他愛もない話に、祖父は膝を打って高笑いし、

その後も「達公あれやってくれ」と何回となく催促された。


膝を打って笑うのは祖父の癖で、全身で笑う無邪気な姿は、

逆境のでも、生涯変わることはなかった。奇妙なことだが、

祖父の笑顔思い出すたび、私は今でも涙ぐむことがある。

                                 (つづく)

       (*1 明治天皇の巡拝は明治10年、その時赤松は20歳)