当主の聞き書き(15) [当主の聞き書き]
(見学者の思い出)
質)見学者で思い出に残るのは?
答)沢山の人に来ていただいた。有名な人も多かったが不思議にその時は
家に居なかったことが多い。勤めていたから。
写真家のノーマン・カーバー氏、緑川洋一氏、土門拳氏、
建築家の藤森照信氏、
皇族では東伏見伯爵様、高松宮様、
映画監督では篠田正浩さんが「沈黙」や「槍の権左」のロケに庭を使われた。
その他ほんとに大勢の人たちに来てもらっている。ありがたいことでした。
(終わり)
これで、聞き書き第一部を終わります。読みづらい文をお読み続け頂いて、
ありがとうございました。当主の思い出でした。
第二部は当主の建屋各所の説明になりますが、どのような形態でアップするのが
良いのか、検討してからアップする予定です。
当主の聞き書き(14) [当主の聞き書き]
質)解体修理は何年かかった?
答)延べ昭和26,27,28年と三年だが、実質丸二年だったか。
解体の最中に、母のたきが亡くなった。完成を見ていない。
質)「重文民家の集い」を発足させたのは?
答)先代松坪が亡くなる前年に話が出て、亡くなって私が当主になった昭和 52年8月に全国組織を結成した。小川さんの家で結成総会をやった。当時の幹事で今残っているのは3人だけか。
長老が会長をやってくれると思っていたが、旗振り役のお前がやれということになって、今に至るまで代表幹事を続けている。その後会員が増えたが、今は130軒くらいかな。
当時、住み難くなった家の問題とか、相続の問題とか、修理の問題とか
いろんなことに、重要文化財の家は皆が困っていた。そうした問題には
一人ひとりで対処しなければならなかった。
集まってみんなで助け合おうというのが趣旨だった。
当初は近畿だけで始まり、同好会のようなものだったが、次第に物言う団体の時代もあったが、今はまた情報交換の場になっているような感じでもある。
建物も個人所有から「旧○○家住宅」というように個人所有で無くなってき
ているように思える。
(続く)
当主の聞き書き(13) [当主の聞き書き]
(解体修理の頃)
質)飛びますが、昭和26年ころに解体修理が始りますね。
答)昭和25年に文化財保護法が出来、重要文化財に指定替えになったが、
そのころ解体復元の話が出てきた。
修理責任者の浅野清先生とこの部屋で話をしたが、その話に若い私は感動した。まず修理にあたってどんなことを考えて修理にあたるかというお話である。「当初この家を建てた大工には、一貫したデザイン思想があったはずだ。
ところが、人が住んでいくうちにいろいろな事情で手直しされてきて、オリジナルデザインが壊されてきた。住むからには当たり前のことだったが、
今回の解体時を機会に出来るだけオリジナルデザインに戻したい。立派な建築に戻るはずだ。
もう一つは「素材の問題である。柱とか梁とかの素材はいつか必ず滅びるものだが、当初の一貫した様式、考え方をしっかり持っておれば復元はできる。」 素材の保存で無くて様式の保存を大切にしたいというお話だった。
「復元」か「現状復帰」かに迷っていた20代の私はこの話の内容に
感動して、一も二もなく「復元」に同意した。
(後から考えると、責任者間では、方向は復元に話は決まっていたように思える。話し合いは、単に住んでる家族に納得させるためだったかもと思う)
ところが、修理が終わってみれば、愕然とした。もう 住めない家になっていた。居間の形が違う、土間が大きく変わっている、水道も使えないような形になってしまっている。
やむなく我々は別家屋に住むことになった。
(続く)
当主の聞き書き(12) [当主の聞き書き]
質)主屋の復元修理にはお母さんのたきさんの尽力が大きかったですね?
答) [・・・当主思い出してか、涙目になって黙すのみ・・・]
松坪は指定前に大病をして以来、病気がちで、修理のころは内にこもって、悠々と絵ばかり描いていた。しかしその場に居るというだけで十分重石になっていたと思っている。
質)当時は雨漏りなどひどかった?
答)それはひどかった。 大雨の時など、あちらで漏った、こちらで漏った、
座敷でも漏っていると大騒ぎだった。
瓦葺きと違い、茅葺の雨漏りは厄介だ。雨水があちらこちらと移動するのでどこが雨漏りの元か分からない。今ここで雨を受けるものを置いても、すぐに別の所に移動する。追っかけあいしていた。
質)そんな状態が解体修理するまで10年くらい続いた?
答)ずっと雨には悩まされた。建具もがたがただった。子供の頃の思い出は
「古い、大きい、天井が高い、埃だらけ、畳踏んだらぼこぼこ」だった。
友達の新しい家に遊びに行き、ピアノがあり、ソファがあり,ピカピカと 綺麗なのを見て、ほんとうにカルチャーショックを受けて目を見張った。
赤松が昭和9年に亡くなったが、そのころから国宝の話があって、昭和10年だったかそのころに東大の建築科の先生藤島亥治郎さんが、40そこそこだったが学生を連れてこの家に合宿して調査していた。
その時の図面をもらったと思う。
昭和12年の指定直前に伊藤忠太先生が来られて「この家は古くてモダンな家だね」と評したと松坪はひとつ話に言っていた。
松坪(しょうへい)もよほどこの言葉が気に入っていたようだ。
(続く)
当主の聞き書き(11) [当主の聞き書き]
(国宝指定前後)
質)国宝指定の話は小学校4年ころでしたか?
答)昭和12年8月25日。夏休みの終わりころ。ゴムまり野球が急にやれなくなり残念だったことで覚えている。
いろんな人が見学に次から次にやってきて、我々の居間の前を通って行く。 暑いのに障子を開けられなくてたまらんかった思い出がある。
開けられんどころか、突然開けられて覗きこまれることもあった。 長屋にも親族が居て、中を覗き込まれて困っていた。
あまり大勢の人が来るので、奥座敷の縁側が落ちてしまうという事故もあった。
「お前も案内役に行って来い」ということもあった。何を話したか覚えてないが、交通整理したのは覚えている。10歳の子供だったから。
名誉なことだと大人たちは言ってたが、子供にはなにがなんだか分からんかった。
(続く)
当主の聞き書き(10) [当主の聞き書き]
おゆうさんの逸話でもうひとつ。
明治維新で、武士への貸金が返却されなくなったりして、この家も逼塞した。今後どうするかと親族が会議を開いて、話し合った。
大きいばかりのこの家を取り壊して、その空き地に借家をたくさん建て、現金収入を増やそうということになったが、
その時おゆうさんが「お前たちはなんということを言うのか、先祖から戴いたこの家をつぶしては、墓に入ったとき、ご先祖にどんな申し訳をするのか」と諭した。
みんなは頭を下げて一言もなかったという。
おゆうさんは、「家屋敷は残せ、代わりに書画骨董のたぐいはどんどん売り払え、ただし売るについては、名のある人の所へ売れば、また家運が戻った時には頭を下げて買い戻しに行けばよい」とのことだった。
後々、家運も盛り返したようだが散逸したものは戻らなかった。
おゆうさんのお蔭でこの家も残ったのだと云えよう。
赤松は終生「この家屋敷はご先祖様から戴いたものだ」を口癖のように言っていたそう
だ。
(続く)
当主の聞き書き(9) [当主の聞き書き]
質)そのほかに?
答)かっての下男のひとりに腰が曲がって地を這うように歩いていた人がいた。
90歳くらいまで生きていたかな。
よく昔話を聞かせてくれたが、そのなかで、「おこしっつあん」(ご後室さん、未亡
人)と呼んでいた人のことがある。
多分、今も玄関に残っている「輿」に乗って嫁いできた人のことだったろう。この人は
怖い人で まともに顔を見たことが無い。この人の前ではいつも顔を伏せていたが、使
用人を呼ぶとき「そちは」と呼ばれたという。
おゆうさんといい、撫松(ぶしょう)夫人だった。
おゆうさんの逸話で、こんな話がある。
「こうりよくもん」(合力者?)と呼ばれた老人がいた。昔武士だったのだろうが年を
取ってしまい、合力(無心)を頼みにいつも来ていた。おゆうさんが応対していたが、
ある日、もらう額が少ないと不足を言ってごねていたので、豪気なおゆうさんは「不足
ならもう来るな」と元武士を叱りつけた。
丁度来かかった村相撲の大関を張った下男が、それを聞きつけて男のえりがみをつ
かみ放りだして,二度と来させないようにしたという。
剛毅なおゆうさんと日頃のこうりょくもんに不満を募らせていた忠義な下男の様子を
伝える昔話だ。
この話はよく聞かされた。
(続く)
当主の聞き書き(8) [当主の聞き書き]
質)年貢を納めるのは?
答)土間に蓆を敷いて、俵に詰め、天秤棒で担いで独特の秤で一俵ずつ計っていた。
俵は納屋の奥に積み上げていたが、沢山の人がいて賑やかだった。
赤松が亡くなるころに農地を売ってしまったが、そのころから年貢は金納になっていっ
た様だ。
質)そのほかに?
答)小正月に正月飾りをまとめて庭で焼いた(とんど)。
四隅に竹を立て縄で結んで、結界を作りその中で焼いた。
これも当主の仕事だった
築山のお稲荷さん、金毘羅さん、巳辰さん、八島さん、大黒さん
恵比寿さんなど神さんのものも多かった。
答)おひなさんは、御殿飾りのひなだった。
鯉のぼりはやらなかった。武者人形を飾り、中に小さな鯉のぼりが
立っていた。飾り用の具足鎧があって、着てみて重かったのを覚えている。
飾りだった。
(続く)
当主の聞き書き(7) [当主の聞き書き]
質)年末の行事は?
答)餅つきを覚えている。土間で餅をつき、板の間で女衆が並んで丸めていた。
近所の人たちが10人ほど手伝いに集まってくれていしていた。
餅の一部は「あかねこ」と言って、伸し餅にして、黄な粉をまぶして、その日の「お八
つ」にした。
鏡餅は念入りに丁寧に作っていたが、一つだけだった。
ほかに荒神さんやその他の神さん用にまとめてはいくつも作っていた。
餅の量は多かった。
竹笹を取ってきて枝の付け根に餅を巻きつけて「餅花と呼んで茶の間の天井に飾ってい
たが、食事中などにぱらぱら落ちてきて困ったことも覚えている。
そのかけらを油で揚げて食べてものだった。
餅は年末だけでなく、何か祝い事があったりすれば,いつもついて配っていたと云う。
質)年末のその他の行事は?
答)枝柴と割木を一年分整えることが年末の行事だった。
業者が枝柴を荷車で運んできて、軒下に積んでおいたのを、年末の一日
10人ぐらいの手伝いの人が来て手分けして屋根裏に積み込んでいた。
外から運び込む人、滑車で上にあげる人、広い屋根裏に積み込む人など分担して手際よ
く作業をこなしていた。
小さい私が呼ばれて滑車で屋根裏まで運んでもらったこともある。
作業が終わるとみんなで賑やかに宴会して、年末の挨拶をして帰って行った。
(続く)
当主の聞き書き(6) [当主の聞き書き]
(行事の思い出)
質)正月の思い出は?
答)三が日は「お家の間」で一人ずつお膳を並べた。北向きに男席、東向きに女席、家族全員が正装で並んだ。出入りの人たちが来て、上がり框の広敷に上がってあいさつして行った。
面白いのは当主が男席の一番末席の広敷寄りに座っていたことだ。挨拶を受けるのに便利な席を取っていたのだろう。
お膳は男は高脚付きのお膳で、食器全部に定紋がついていた。女は低い脚付きのお膳で、母方、祖母方などいろいろ紋が違っていた。
女連中が着飾って並んでいたのはそれはそれで華やかだった思い出だ。
正月のにぎわいも赤松の時代までで、松坪の時代は賑やかなことが出来ない時代になってきた。
質)正月のかざりは?
答)床の間の正面に敦実親王、右に大黒、左に恵比寿の三幅対の掛け軸を掛け、前に恵比寿、大黒の厨子、鏡餅が飾られた。これを飾るのは当主の役割だった。
質)やっぱり敦実親王は大事に祀られていたのですね。
答)大事にしていた。木像の方は仏壇の横の部屋で、花頭窓の厨子に入れて大切に守られてきたが、主屋の復元修理以後、今は押し入れの片隅に置かれている。
(続く)
当主の聞き書き(5) [当主の聞き書き]
(冠婚葬祭の思い出)
質)冠婚葬祭で思い出すことは?
答)あまり記憶にない。
質)当主の結婚式は?
答)戦後間もなくで物資窮乏時代だったから質素に小人数で済ませた。
金屏風を巡らし、雄蝶、雌蝶の盃ごとはあったが。
年寄りの昔話に聞いたが、赤松の(せきしょう)の伯母が嫁ぐときだったか、その花嫁荷物の先頭が東除川の橋を越えてもまだ最後尾は屋敷内だったそうだ。
質)葬のほうは?
答)赤松の葬儀の時は、甕に入れて輿に乗せてみんなで
墓まで送った。家の大門がこの時開いた。大門はこんな時しか開かない。
墓は東除川沿いの、むかし小山があった土地で、一人一人の墓が50ほど残っているが、今は村の墓地になっている。父や母の時はもう火葬になった。
(続く)
当主の聞き書き(4) [当主の聞き書き]
質)父松坪のことは?
答)郵便局長をやっていた。当時無集配の郵便局(3等郵便局)があって、この郵便局は局長は特別な資格が必要で無く、一定の条件さえ満たせば誰でもやれた。親しい者には切手の値段しか知らない局長さんだとからかわれたくらで、仕事は一切せず。この人も絵だけ描いて暮らしていた。
南画を好まず、本格的に日本画を習いに何か月も京都へ修業に行ったりした。
都路華香先生だった。先生が亡くなってから南画にも親しんでいた。
質)撫松、赤松、松坪と代々絵を描いてきたが、この家に沢山残っている?
答)凡そ絵を描く人間で自分の家に絵が残ってるようではダメなんだと
言っていた。求められて沢山の人にあげていたので、家にはほとんど残っていな い。
質)無料で描いてあげていた?
答)そう、趣味で描いていたから。特に赤松はお礼に金を持ってきたりすれば機嫌が悪かった。野菜や魚などを持って来れば、「野の宝だ」などと言って喜んでいたと云う。
父松坪は絵を描く以外の世事には全く恬淡としていた。
(続く)
当主の聞き書き(3) [当主の聞き書き]
(当主の個人的思い出)
質)個人的思い出で、まず祖父赤松のことについて
答)赤松は雅号で、本名は彦次郎。私の小学1年の秋まで健在だった。
地主としての仕事以外に陵墓官をやっていて、人力車に乗って応神陵の
そばの事務所に出向いていたと聞いている。
質)絵が達者だった?
答)いつも絵を描いていた。人にも教えていた。
質)お茶も?
答)茶道もよくしていた。
祖父の祖父撫松は富田林の中村家などにもお茶を教えに行っていた。
中村家に泊りがけで教えに行き、中村家からも泊りがけで 来たりしていた。
赤松の晩年は抹茶より煎茶を好み、私も小さいのによく飲まされたので、煎茶の味を覚え、他所へ行った時など、このお茶は美味い、不味いというようなこまっしゃくれたことを言っていたそうだ。
質)姿勢正しく高潔な人柄だったようだが?
答)そばに来る人もおのずから姿勢正しくなるような人だった。私も敬語で話していたことを覚えている。
それでも 陵墓官時代、明治天皇が視察に来られた時、お迎えしたが、緊張のあまり一度に両手をあげて敬礼したのを「大失敗」と語り草にしていた。
(続く)
当主の聞き書き(2) [当主の聞き書き]
(古文書に残る吉村家住宅の歴史)
質)大坂夏の陣で古い史料が焼けてしまったが、今残る一番古い史料によると 秀吉の時代に吉村家は「政所(まんどころ)」と呼ばれていたそうですね?
答)「政所」というのがどのような仕事をしたのか分からないが、天正19年の文書に残っている。
質)そのころに武士をやめ、帰農したのか?
答)信長の河内攻めの折に降伏して丹下城から低地のこのあたりに移り住んだのではないかと思う。
質)古い絵図面が残っているが、そのころこのあたり全部で十数軒の家しかなかった?
答)天正19年では十一軒だったようだ。 次第に農地、農家が増えていったのだろう。
質)大坂夏の陣の道明寺合戦で屋敷が焼けた?
答)その通り、この屋敷の前身が焼けたことが、近くの明教寺に残っている古絵図面に書入れとして残っている。
質)徳川の世になって、直轄領になった?
答)はじめは天領だった。その後群馬県にある秋元藩の領地になった。秋元家は幕府の老中も務めた家だったがその飛地で河内領といわれ、43カ村ほどあり 西は堺市、北は矢田、瓜破のあたり、南は美原のあたり、東が丹北郡島泉村の辺りであった。その中で入り組み飛び飛びにもあった河内領だが、大きさは本国領地より大きかったともいわれる。
質)吉村家はその43カ村のうち18カ村の大庄屋を受け持ったのか?
答)そうだ。
質)秋元藩に吉村家の過去の歴史を報告しろと言われて報告したことがあったようだが?
答)それには 「古い文書が無く、よく分からない」と回答している。
質)一説には、豊臣の時代に重用されていたので、徳川に慮って過去の歴史を秘したという学者もいるが?
答)それは分からない。
質)大庄屋以外に江戸時代の役職でなにかあるか?
答)雄略陵の管理を代々やっていた。祖父の時代は雄略陵、応神陵ほか十数の御陵、陵墓参考地のお守りをしていた。
(続く)
当主の聞き書き(1) [当主の聞き書き]
民家で最初に国宝に指定された吉村家住宅を貴重な文化財として、永年ひとりで守り続けてきた当主吉村堯氏も、今年88歳を迎えることになりました。いろいろ思い出もあるでしょうが、最近は語ることも少なくなっております。
吉村家住宅に関心をお持ちの方々に、当主の貴重な「家の記憶」を少しでも残しておきた いと考え、「聞き書き」という形式をとり思い出を語ってもらうことにしました。
(当主が伝え聞いた吉村家住宅の歴史)
質)言い伝えでは、吉村家の先祖は佐々木高綱と聞いているが?
答)そう言われているが確かな資料は残っていない
質)佐々木氏の先祖は敦実親王(近江源氏の祖)と言われているが、その敦実親王と言われる木像が吉村家に秘蔵されており、代々大切に祀ってきたと聞いているが? また正月には敦実親王の掛け軸を毎年掛けているが?
答)親王像は大切に守ってきた。近江源氏の末裔であることは間違いないだろうが、中世の史料が失われているので、はっきりしたことが言えない。
質)中世は豪族であったことは間違いない?
答)間違いないだろうと思う。
質)近くに大塚山古墳という陵墓参考地があって、ここに昔、城を持っていたと言われているが?
答)大塚山に城があり、「丹下」一族と呼ばれていたことは、何人かの郷土史家の方々が言っている。
質)家紋が近江源氏の家紋に似ているが?
答)丸に四つ目だが、近江源氏の紋は四つ目で、四角の中に窓がある。吉村家の紋は窓が塗りつぶされている。創作紋かもしれない。