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当主の随想 Ⅱ-3- [吉村家住宅あれこれ]

 

父母を神仏にひとしいほどに崇敬し憧憬した 松坪は、まさに

情の人であり、平和の人であった。作品そのものでなく、画人

気質の比較でいえば、松坪こそ歴代中白眉の、一芸に打ち込

気質を豊かに持った人であろう。


終生絵筆に関すること以外、念頭になかった。というより他事

思う余地は残っていなかったとさえ言えるかも知れない。

  赤松は、画は自らの人生においては余技である観じ、その故

高雅な精神世界に到達し、晩年は悠々と別世界にあるかの如

風格を湛えるにいたった。


一方写生を基本として出発し、心情としては一貫して画人以外

なにものでもなかった松坪とは 風貌、骨格は年を追って

相似しがら、到達した境地は相隔たること甚だしい。


しかし、つぶさに見ればやはり同根であり親子であると痛感

させれる、現に松坪晩年における水墨画などの、いかに

赤松直伝の風趣であることか。

 その松坪もまた、内には明治生まれの特質を豊かに蔵して

いる思われるところが多々あった。柳の如く柔軟でありなが

ら竹の如き反発力、強靭さを備えた側面を見たこと しばしば

である。


 晩年、世間的なことは一切を 倅にゆだねてなんのためらう

ことなく、ただひたすら絵筆を揮るっていた父をただただ懐か

つつ、その生前の約を果たして、撫松、赤松の遺墨を展観

しえたこと喜びとし、併せて松坪までを追悼する結果となっ

たこと悲しみつつ、古く永く続いた画人の系譜の、最後を

承る者として感想を閉じようと思う。


━追記━ 拙文の題名ほ父松坪の日誌の表題を、そのまま用いたものである

               昭和五十四年十一月一日 記


 

        











当主の随想 Ⅱ-3- [吉村家住宅あれこれ]

 

父母を神仏にひとしいほどに崇敬し憧憬した 松坪は、まさに

情の人であり、平和の人であった。作品そのものでなく、画人

気質の比較でいえば、松坪こそ歴代中白眉の、一芸に打ち込

気質を豊かに持った人であろう。


終生絵筆に関すること以外、念頭になかった。というより他事

思う余地は残っていなかったとさえ言えるかも知れない。

  赤松は、画は自らの人生においては余技である観じ、その故

高雅な精神世界に到達し、晩年は悠々と別世界にあるかの如

風格を湛えるにいたった。


一方写生を基本として出発し、心情としては一貫して画人以外

なにものでもなかった松坪とは 風貌、骨格は年を追って

相似しがら、到達した境地は相隔たること甚だしい。


しかし、つぶさに見ればやはり同根であり親子であると痛感

させれる、現に松坪晩年における水墨画などの、いかに

赤松直伝の風趣であることか。

 その松坪もまた、内には明治生まれの特質を豊かに蔵して

いる思われるところが多々あった。柳の如く柔軟でありなが

ら竹の如き反発力、強靭さを備えた側面を見たこと しばしば

である。


 晩年、世間的なことは一切を 倅にゆだねてなんのためらう

ことなく、ただひたすら絵筆を揮るっていた父をただただ懐か

つつ、その生前の約を果たして、撫松、赤松の遺墨を展観

しえたこと喜びとし、併せて松坪までを追悼する結果となっ

たこと悲しみつつ、古く永く続いた画人の系譜の、最後を

承る者として感想を閉じようと思う。


━追記━ 拙文の題名ほ父松坪の日誌の表題を、そのまま用いたものである

               昭和五十四年十一月一日 記


 

        











当主の随想Ⅱ-2- [吉村家住宅あれこれ]


 さらに、「陳列」という独特の形があった。

果物など頂くと、必らず画室の床の間に飾って眺めることを 

楽しんでいた。

時として、腐ってしまうまでお下げ渡しにならぬこともあり、

まず大抵は変形直前まで陳列されていたものである。

 この陳列品を もののみごとに処分してしまえる人が一人だけ

いた。 「北村の伯母さん」と呼んでいた赤松の姪である。

姪の母(赤松の姉・日置家)が早く未亡人になって、わが家に戻って

いたので、北村の伯母の里帰り先はわが家であった。


やってくると忽ち、子供たちを呼び集めて陳列品の大盤振舞いで

あった。 かって「北村王国」とさえ言われた北村家は泉尾新田

を開拓し、難波周辺に広大な土地を持っていた家の主婦らしく、

実におおらかな人柄であった。いかな祖父もこの人には参って

いたようで、「こりゃかなわんな」と苦笑いしながら見守っていた

ものだった。


昭和九年の秋、眠るが如くであった赤松の大往生は、古き良き時代

の終末を告げるものでもあった。

赤松の死とともに、古い家系に残されていたもろもろの伝統、習慣

は殆どすべて消滅したと言っても過言でない。

それは、何よりもまず、父松坪は赤松とは全く対照的で、
天衣無縫、固苦しいこと、形式ばった言動を最も嫌う人柄で
あったせいでもある。

                         (続く)



当主の随想Ⅱ-2- [吉村家住宅あれこれ]


 さらに、「陳列」という独特の形があった。

果物など頂くと、必らず画室の床の間に飾って眺めることを 

楽しんでいた。

時として、腐ってしまうまでお下げ渡しにならぬこともあり、

まず大抵は変形直前まで陳列されていたものである。

 この陳列品を もののみごとに処分してしまえる人が一人だけ

いた。 「北村の伯母さん」と呼んでいた赤松の姪である。

姪の母(赤松の姉・日置家)が早く未亡人になって、わが家に戻って

いたので、北村の伯母の里帰り先はわが家であった。


やってくると忽ち、子供たちを呼び集めて陳列品の大盤振舞いで

あった。 かって「北村王国」とさえ言われた北村家は泉尾新田

を開拓し、難波周辺に広大な土地を持っていた家の主婦らしく、

実におおらかな人柄であった。いかな祖父もこの人には参って

いたようで、「こりゃかなわんな」と苦笑いしながら見守っていた

ものだった。


昭和九年の秋、眠るが如くであった赤松の大往生は、古き良き時代

の終末を告げるものでもあった。

赤松の死とともに、古い家系に残されていたもろもろの伝統、習慣

は殆どすべて消滅したと言っても過言でない。

それは、何よりもまず、父松坪は赤松とは全く対照的で、
天衣無縫、固苦しいこと、形式ばった言動を最も嫌う人柄で
あったせいでもある。

                         (続く)



t当主の随想 Ⅱ ー1- [吉村家住宅あれこれ]

 

今回は、昭和54年11月に「吉村家歴代画業回顧展」を開催

した折、同時に作成した 記念文集「絵筆に生きた人々からの

抜粋です。


 堯 の父(画号「松坪」ショウヘイ)、祖父(「赤松・セキショウ

そのまた祖父(「撫松」ブショウ)いずれれも日本画を良くした人で。

 その思い出を綴っている。 


 (民家というものには、家の美しさなどとは別に 柱の一本一本に

 そこに 人が住んでいたという歴史が残っている。

 私的なことだが、その思い出も消し去ってはいけないと思う。

 かって古い家に住んでいた人達の、人への想い、家への想いの一端を

 どうぞ。)

 



   思ひ出づるままに -赤松・松坪を偲ぶー


                     吉村 堯


 一世紀以上も昔に世を去った撫松については、語り得る直接の

想い出のあろうはずもないが、幼き日々をその膝下に過ごす事の

多かった祖父赤松と、つい先年不帰の人となったばかりの父松坪

については、語り尽きせぬほどの追憶がある。しかし両者には甚だ

しく異なる趣があって、赤松は玉露の如く、松坪は甘露の如くで

あったと言えようか。


明治以前の気骨、風格を伝え、「家長」という名にふさわしい

当主像の最後を飾った赤松は、ただ一つ蜘蛛と雷が大の苦手と

いう弱点を持っていた。 厠から大音声あげて飛び出したり、

遠雷の響きとともにはやばやと離れ部室の臥遊軒から煙草盆を

提げて現れ、主屋の中心部のお家の間にある押入れのなかへ退避し、

雷の遠ざかるころには やすらかないびきが響くというほほえま

しい一幕もしばしばあった。

また、夜食と称して少量の晩食を、倅松坪の世間話を肴に、楽し

み楽しみゆっくりと摂っていた光景も思い出される。


父方の従兄の回想にある下賀茂仮住居の折、お供をして数カ月を

一緒に過ごしたが、そのころ対面した病身の伯母の、ほの白い

面差しを今も思い浮かべることができる。


母方の従兄の文中にでてくる「勲章」(* 1)は、私たち孫どもには

別段の儀式を要しなかった代わり、みごとな格差がついており、

姉たちのはまっすぐ立つことのできないほどの薄い羊かんであるのに

後から行った私にはその何倍もの厚さであった。 それでさえ世間の

厚さの半分にも及ばなかったが・・


*1 赤松は客があると、客に書画を描くことを所望することが多く、

    そのご褒美に羊かん一切れがもらえた。それを皆は勲章と言っていた)

                                        

(*2 撫松 1798(寛政10)~ 1869 (明治2) 

     赤松 1858(安政5) ~ 1934 (昭和9)

    松坪 1895(明治28)~ 1977 (昭和52)

 

                                   (続く)



                       

t当主の随想 Ⅱ ー1- [吉村家住宅あれこれ]

 

今回は、昭和54年11月に「吉村家歴代画業回顧展」を開催

した折、同時に作成した 記念文集「絵筆に生きた人々からの

抜粋です。


 堯 の父(画号「松坪」ショウヘイ)、祖父(「赤松・セキショウ

そのまた祖父(「撫松」ブショウ)いずれれも日本画を良くした人で。

 その思い出を綴っている。 


 (民家というものには、家の美しさなどとは別に 柱の一本一本に

 そこに 人が住んでいたという歴史が残っている。

 私的なことだが、その思い出も消し去ってはいけないと思う。

 かって古い家に住んでいた人達の、人への想い、家への想いの一端を

 どうぞ。)

 



   思ひ出づるままに -赤松・松坪を偲ぶー


                     吉村 堯


 一世紀以上も昔に世を去った撫松については、語り得る直接の

想い出のあろうはずもないが、幼き日々をその膝下に過ごす事の

多かった祖父赤松と、つい先年不帰の人となったばかりの父松坪

については、語り尽きせぬほどの追憶がある。しかし両者には甚だ

しく異なる趣があって、赤松は玉露の如く、松坪は甘露の如くで

あったと言えようか。


明治以前の気骨、風格を伝え、「家長」という名にふさわしい

当主像の最後を飾った赤松は、ただ一つ蜘蛛と雷が大の苦手と

いう弱点を持っていた。 厠から大音声あげて飛び出したり、

遠雷の響きとともにはやばやと離れ部室の臥遊軒から煙草盆を

提げて現れ、主屋の中心部のお家の間にある押入れのなかへ退避し、

雷の遠ざかるころには やすらかないびきが響くというほほえま

しい一幕もしばしばあった。

また、夜食と称して少量の晩食を、倅松坪の世間話を肴に、楽し

み楽しみゆっくりと摂っていた光景も思い出される。


父方の従兄の回想にある下賀茂仮住居の折、お供をして数カ月を

一緒に過ごしたが、そのころ対面した病身の伯母の、ほの白い

面差しを今も思い浮かべることができる。


母方の従兄の文中にでてくる「勲章」(* 1)は、私たち孫どもには

別段の儀式を要しなかった代わり、みごとな格差がついており、

姉たちのはまっすぐ立つことのできないほどの薄い羊かんであるのに

後から行った私にはその何倍もの厚さであった。 それでさえ世間の

厚さの半分にも及ばなかったが・・


*1 赤松は客があると、客に書画を描くことを所望することが多く、

    そのご褒美に羊かん一切れがもらえた。それを皆は勲章と言っていた)

                                        

(*2 撫松 1798(寛政10)~ 1869 (明治2) 

     赤松 1858(安政5) ~ 1934 (昭和9)

    松坪 1895(明治28)~ 1977 (昭和52)

 

                                   (続く)



                       

当主の随想ー6- [吉村家住宅あれこれ]

 前栽に面した、畳縁「鞘の間和む」で客と対座するときが、

私にとってもっとも心の休まり、和むひとときというか、

わが家にいるという実感を味わう時となって久しい。


かってここで、伊藤忠太博士は「古くてモダンな家だ」と

もらされたという。それを語り草にしていた父も既に亡き数に

入った。復元以前のわが家を知る者は私と妹の二人になった。

住居であった昔はやがて語り草としても伝わらなくなる。

そう考えると、わが家にかぎっては「復元修理」はまことに

価値あり、意義ある修理であった。


家は住み継いで維持すべきだ。別棟に住んでいては年々歳々

愛情が薄れ、民家の保存には望ましくない結果を生じやすい。

と考えるならば、一歩譲って、伝建地区、いわゆる町並み

保存地区のように、一定基準の下での内部改造、増築(仮設

工事として)を認めることはどうであろう。

重文民家の過半数を占める個人所有者は、文化財の名の下に

私権を制約される一方、補助は最低限にも満たぬ状況に追い詰め

られている。

ここ数年の間に重文民家の集いから10名の減、公有化の事実

がある。それが時の流れによる必然の帰結とされるなら何おか

いわんやであるが、

民家とは所有者のの心が通ってこそが真実ならば、せめて施策

に弾力性があってほしいものである。同じ思いを持つ全国の

所有者に代わって、重ねて行政当局に望みたい。同時に心ある

方々のご支援を心からお願いするものである。


想い余って筆の滑ったところも多々あるが、微衷に免じて何卒

寛恕されたい。


(全国重文民家の集い代表幹事)

                                                                         昭和60年2月1日 日本美術工芸


当主の随想ー6- [吉村家住宅あれこれ]

 前栽に面した、畳縁「鞘の間和む」で客と対座するときが、

私にとってもっとも心の休まり、和むひとときというか、

わが家にいるという実感を味わう時となって久しい。


かってここで、伊藤忠太博士は「古くてモダンな家だ」と

もらされたという。それを語り草にしていた父も既に亡き数に

入った。復元以前のわが家を知る者は私と妹の二人になった。

住居であった昔はやがて語り草としても伝わらなくなる。

そう考えると、わが家にかぎっては「復元修理」はまことに

価値あり、意義ある修理であった。


家は住み継いで維持すべきだ。別棟に住んでいては年々歳々

愛情が薄れ、民家の保存には望ましくない結果を生じやすい。

と考えるならば、一歩譲って、伝建地区、いわゆる町並み

保存地区のように、一定基準の下での内部改造、増築(仮設

工事として)を認めることはどうであろう。

重文民家の過半数を占める個人所有者は、文化財の名の下に

私権を制約される一方、補助は最低限にも満たぬ状況に追い詰め

られている。

ここ数年の間に重文民家の集いから10名の減、公有化の事実

がある。それが時の流れによる必然の帰結とされるなら何おか

いわんやであるが、

民家とは所有者のの心が通ってこそが真実ならば、せめて施策

に弾力性があってほしいものである。同じ思いを持つ全国の

所有者に代わって、重ねて行政当局に望みたい。同時に心ある

方々のご支援を心からお願いするものである。


想い余って筆の滑ったところも多々あるが、微衷に免じて何卒

寛恕されたい。


(全国重文民家の集い代表幹事)

                                                                         昭和60年2月1日 日本美術工芸


当主の随想ー5- [吉村家住宅あれこれ]

 居室部中央の仏間に今も神仏を祀るのは、われわれ家族の

心意気の表われでもある。

修理前にこの部屋で、解体修理担当の浅野清博士と対談し、

「復元修理の意義と価値ある保存修理」に関するお話を聞き、

とても感動した。お話の内容を今もなを昨日のことのように

思い出す。

素材の古さより、様式の古さを伝えることの意義は、年とともに

深く理解できるようになったが、わが家以降の民家修理がすべて

「復元第一」でなされているように見えるところから、疑問が

出てくるのである。


100%の復元は恐らく不可能であろうし、修理後も住み伝えたい

と望む所有者家族もあろう。 とすればもっと弾力性のある方向

も必要でないか。監督官庁としての方針を主体とするばかりでなく、

所有者と対等立場で話し合う姿勢、という面がもっと強く前面に

出てこないものかと行政当局に要望したい思いも生じる。

現実には補助を受ける立場としての所有者はまことに弱いもので

あるだけに・・・


さまざまの想念を抱きながら客室部に入ると、皮肉なことに、

殆ど立ち入りを許されなかった幼いころの記憶のままにここに

残っている。


面取りの床柱、壁面の絵、襖の絵、杉戸の絵、透かし彫りの欄間、

付け書院の銅鑼、襖の引手や釘隠し、障子の桟に至るまで、

さりげなく変化の妙を見せながら、全体としては簡素な趣を湛え

ている。これが数寄屋風書院造りの手法だろう。

細部にまで意匠を凝らしながらも、おおらかな骨太い造形感覚で

貫いた構成に、言い表しようのない魅力を感じる。

このようなのびやかさを楽しんだ人を先祖に持つことを誇りにも

思い、またこれを守ることの喜びを感じる。

                        

                                 (続く)







当主の随想ー5- [吉村家住宅あれこれ]

 居室部中央の仏間に今も神仏を祀るのは、われわれ家族の

心意気の表われでもある。

修理前にこの部屋で、解体修理担当の浅野清博士と対談し、

「復元修理の意義と価値ある保存修理」に関するお話を聞き、

とても感動した。お話の内容を今もなを昨日のことのように

思い出す。

素材の古さより、様式の古さを伝えることの意義は、年とともに

深く理解できるようになったが、わが家以降の民家修理がすべて

「復元第一」でなされているように見えるところから、疑問が

出てくるのである。


100%の復元は恐らく不可能であろうし、修理後も住み伝えたい

と望む所有者家族もあろう。 とすればもっと弾力性のある方向

も必要でないか。監督官庁としての方針を主体とするばかりでなく、

所有者と対等立場で話し合う姿勢、という面がもっと強く前面に

出てこないものかと行政当局に要望したい思いも生じる。

現実には補助を受ける立場としての所有者はまことに弱いもので

あるだけに・・・


さまざまの想念を抱きながら客室部に入ると、皮肉なことに、

殆ど立ち入りを許されなかった幼いころの記憶のままにここに

残っている。


面取りの床柱、壁面の絵、襖の絵、杉戸の絵、透かし彫りの欄間、

付け書院の銅鑼、襖の引手や釘隠し、障子の桟に至るまで、

さりげなく変化の妙を見せながら、全体としては簡素な趣を湛え

ている。これが数寄屋風書院造りの手法だろう。

細部にまで意匠を凝らしながらも、おおらかな骨太い造形感覚で

貫いた構成に、言い表しようのない魅力を感じる。

このようなのびやかさを楽しんだ人を先祖に持つことを誇りにも

思い、またこれを守ることの喜びを感じる。

                        

                                 (続く)







当主の随想ー4- [吉村家住宅あれこれ]

 大戸口のシンプルな冠木を仰ぎつつ敷居を越えれば、夏でも

ひんやりするほどの薄暗い空間がひろがる。竹すのこの 土天井

を縦横に走る大小の梁が支え、奥の釜屋に至るまでが柱無しの

土間となっている。


この見事な空間の拡がりの片隅に、さりげなく小さな 吊り部屋

を設け、その取り付け梯子に、壁面の装飾を兼ねさせている工夫は

実用一点張りでなく、実に巧みな演出である。いい意味での遊び心

がくみ取られ、おおらかなゆとりを持った構成間隔が窺われる。


それはまた、煙突を省略した「かまど」の機能的、効率的な造形

にも、古人の生活と知恵が結びついたデザインとして表われている。


約二十坪ほどの空間を広々と開放した土間向こうには、さっきの

吊部屋を左に備えて、広敷の板敷が伸びている。その中央に根を

生やしたように透かし彫りの衝立が収まっている。

実はこの衝立は、昔は土間の中仕切りの上にあった欄間なのだ。

これを見る時いつも思い出すのが、消え去って久しい昔の台所部分

である。


煙りと煤と蜘蛛の巣と、立ち働いていた人影が今も眼前に浮かぶ。

しかし同時に「復元修理」(*2)という修理方法への大きな疑問

も生じる。

それは家族達から住む家を奪い、「わが家」を日々遠い存在に

してゆくマイナス効果も持つからだ。そしてその後遺症が次の

世代により強く影響するだろう。古い時代の記憶が消えゆく現在、

マイナス効果への認識がより大切でなかろうか。


 居室部はまさに、江戸初期の農家を再現した感じで、竹簀子

の天井の下、素朴なあたたか味のある趣を見せ、実用に徹した

構造の力強さを示している。

   

(:2)民家などを解体修理する際、「復元修理」と「現状修理」の二つの考え方の

            修理方法 が考えられる

    前者は建築した当初の形に戻して復元する。後者は建築当初の形式が使用上不都合

           になり、増改修を繰り返すことによって、形に変化があり現在の形になっている。

           その姿のままに修理する考え方。


                                                                                                (続く)

    

当主の随想ー4- [吉村家住宅あれこれ]

 大戸口のシンプルな冠木を仰ぎつつ敷居を越えれば、夏でも

ひんやりするほどの薄暗い空間がひろがる。竹すのこの 土天井

を縦横に走る大小の梁が支え、奥の釜屋に至るまでが柱無しの

土間となっている。


この見事な空間の拡がりの片隅に、さりげなく小さな 吊り部屋

を設け、その取り付け梯子に、壁面の装飾を兼ねさせている工夫は

実用一点張りでなく、実に巧みな演出である。いい意味での遊び心

がくみ取られ、おおらかなゆとりを持った構成間隔が窺われる。


それはまた、煙突を省略した「かまど」の機能的、効率的な造形

にも、古人の生活と知恵が結びついたデザインとして表われている。


約二十坪ほどの空間を広々と開放した土間向こうには、さっきの

吊部屋を左に備えて、広敷の板敷が伸びている。その中央に根を

生やしたように透かし彫りの衝立が収まっている。

実はこの衝立は、昔は土間の中仕切りの上にあった欄間なのだ。

これを見る時いつも思い出すのが、消え去って久しい昔の台所部分

である。


煙りと煤と蜘蛛の巣と、立ち働いていた人影が今も眼前に浮かぶ。

しかし同時に「復元修理」(*2)という修理方法への大きな疑問

も生じる。

それは家族達から住む家を奪い、「わが家」を日々遠い存在に

してゆくマイナス効果も持つからだ。そしてその後遺症が次の

世代により強く影響するだろう。古い時代の記憶が消えゆく現在、

マイナス効果への認識がより大切でなかろうか。


 居室部はまさに、江戸初期の農家を再現した感じで、竹簀子

の天井の下、素朴なあたたか味のある趣を見せ、実用に徹した

構造の力強さを示している。

   

(:2)民家などを解体修理する際、「復元修理」と「現状修理」の二つの考え方の

            修理方法 が考えられる

    前者は建築した当初の形に戻して復元する。後者は建築当初の形式が使用上不都合

           になり、増改修を繰り返すことによって、形に変化があり現在の形になっている。

           その姿のままに修理する考え方。


                                                                                                (続く)

    

当主の随想ー3ー [吉村家住宅あれこれ]

 母屋との間の前庭には砂を敷き詰め、大戸口への斜めの石畳

以外は空白であるが、かっては作業場、集会所として格好の場

であったろう。斜めの石畳は前庭のよきアクセントであり、母屋

への距離感を強調し、また母屋を眺める上で絶好の視座を提供する。


その起点に立てば、母屋は少し斜めに全容を見せる。七三の比は

人の顔ばかりでなく、建物に対する角度でもすばらしく、

ここから見る母屋はまさに見事な均衡を保っている。ずっしりと

量感はありながら少しも威圧的でない。近代的ともいえる建築美

を示す。大和棟の切妻部分が小気味よく、茅葺、瓦葺の対比する

屋根、それを支える軒下との構成もすっきりしている。

また、大戸口から左右にひろがる壁面は、直線構成が、モンドリアン

の作品を思わせる近代性を見せている。

私自身、わが家はいいなと思って眺めるのはこの時である。


このような簡潔な構成を400年近く前に作り上げた棟梁たちの

眼と腕の確かさに敬服する。


                                     (続く)







当主の随想ー3ー [吉村家住宅あれこれ]

 母屋との間の前庭には砂を敷き詰め、大戸口への斜めの石畳

以外は空白であるが、かっては作業場、集会所として格好の場

であったろう。斜めの石畳は前庭のよきアクセントであり、母屋

への距離感を強調し、また母屋を眺める上で絶好の視座を提供する。


その起点に立てば、母屋は少し斜めに全容を見せる。七三の比は

人の顔ばかりでなく、建物に対する角度でもすばらしく、

ここから見る母屋はまさに見事な均衡を保っている。ずっしりと

量感はありながら少しも威圧的でない。近代的ともいえる建築美

を示す。大和棟の切妻部分が小気味よく、茅葺、瓦葺の対比する

屋根、それを支える軒下との構成もすっきりしている。

また、大戸口から左右にひろがる壁面は、直線構成が、モンドリアン

の作品を思わせる近代性を見せている。

私自身、わが家はいいなと思って眺めるのはこの時である。


このような簡潔な構成を400年近く前に作り上げた棟梁たちの

眼と腕の確かさに敬服する。


                                     (続く)







当主の随想ー2- [吉村家住宅あれこれ]

  現在の屋敷構えは、江戸期の 内屋敷 に当たる部分であるが、

約1600坪にわたって、外堀、介在山林、客室部庭園、等

を含め、母屋・客室部、長屋門、土蔵の四棟を、土塀で囲ん

構成である。そのすべてを現在では重文の指定を受けている。


建物の内、最も古い母屋・客室部が元和初頭の建設と推定され

る、長屋門、土蔵は寛政10年の改築である。

いずれも昭和の解体復元、または半解体の保存修理を終えて

三十余年、十数年を経ている.


何分にも建物は、大家族時代の遺物だから、現在では到底手が

回りかねて、ご先祖様には申し訳ないけれど最低限の手入れしか

できてない。


もともと個人ではどうにも十分な維持保存ができないからこそ 

指定を受けているので、これが当然と言えばいえる。心中まこと

に無念やるかたない思いでもある。


それはそれで、まずはわが家の建物たちのご紹介を。私なりの主観

をあえて貫きながら申し述べてみよう。


  平生は締め切っている長屋門だが、そのくぐり戸からお入り頂く

こととする。

総茅葺、入母屋のこの建物は、農村の長屋門としては古いそうで

、全体の趣がどことなく数寄屋を偲ばせる。例えば、庇の裏の

軒垂木の丸竹がリズミカルに配置されてあったり、くぐり戸が

片引き戸になっていて、門脇の供侍部屋に滑り込むようになって

いたり、いかにも当時の文化水準を物語るようだ。


                           (続く)

当主の随想ー2- [吉村家住宅あれこれ]

  現在の屋敷構えは、江戸期の 内屋敷 に当たる部分であるが、

約1600坪にわたって、外堀、介在山林、客室部庭園、等

を含め、母屋・客室部、長屋門、土蔵の四棟を、土塀で囲ん

構成である。そのすべてを現在では重文の指定を受けている。


建物の内、最も古い母屋・客室部が元和初頭の建設と推定され

る、長屋門、土蔵は寛政10年の改築である。

いずれも昭和の解体復元、または半解体の保存修理を終えて

三十余年、十数年を経ている.


何分にも建物は、大家族時代の遺物だから、現在では到底手が

回りかねて、ご先祖様には申し訳ないけれど最低限の手入れしか

できてない。


もともと個人ではどうにも十分な維持保存ができないからこそ 

指定を受けているので、これが当然と言えばいえる。心中まこと

に無念やるかたない思いでもある。


それはそれで、まずはわが家の建物たちのご紹介を。私なりの主観

をあえて貫きながら申し述べてみよう。


  平生は締め切っている長屋門だが、そのくぐり戸からお入り頂く

こととする。

総茅葺、入母屋のこの建物は、農村の長屋門としては古いそうで

、全体の趣がどことなく数寄屋を偲ばせる。例えば、庇の裏の

軒垂木の丸竹がリズミカルに配置されてあったり、くぐり戸が

片引き戸になっていて、門脇の供侍部屋に滑り込むようになって

いたり、いかにも当時の文化水準を物語るようだ。


                           (続く)

当主の随想 Ⅰ ー1ー [吉村家住宅あれこれ]

 

当主が94歳で亡くなって、一年経ちました。

この一年の間、遺品整理をしたりして 懐かしんでおります。


当主が時折 各所に書き残している文書などを読み返すうちに、

もう一度皆さんにも 読んで頂ければと思いがつのり、

一部をブログに転載することを考えました。週2回程度に順次

掲載します。


読みにくいところもありますが、できるだけそのまま転載致します。

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・


  「重文民家の記」ー指定五十周年を迎えて   吉村 堯


    (「日本美術工芸」569号 昭和61年2月1日)


 民家としては初めての指定文化財指定(*1)を、わが家が受けて

から五十年が巡ってきたのを機会に、代々の家族達よりはるかに

長く生きてきたわが家足跡を振り返ってみたい。

もとよりその道に携わる者でもなく、古民家を研究している

わけでもないから、単に わが家の紹介におわりそうであるが、

少なくとも「内なる者」としての私の実感だけは行間ににじむで

あろうと思う。


山からも海からも遠い、河内平野の南部、かっては典型的な農村

地帯であり、日照りの年の水争い以外は眠っているように平和で

あったろう村々のひとつ、河内国丹北郡島泉村がわが家の所在地

である。

東端に雄略天皇陵の円墳を有するこの村は、古く条里制の昔から

存在していたことが実証されている。


わが家の遠い昔の系譜については、伝承する記録の中には残って

いない。

郷土史家の説などによるしかないが、かって大塚山古墳を居城と

していた一族が織田信長の河内攻めにあって、刀を捨て帰農した

ものであるとされている。


後、天正年間には島泉政所(まんどころ・のちの庄屋)を、天領

時代は庄屋を、享保年間よりは丹北郡十八カ村の大庄屋を兼ねて

幕末に至ったことは家蔵文書に明らかである。


(*1 吉村家住宅は旧文化財法で昭和12年に、民家で最初の国宝指定。

           新文化財法で昭和25年に重要文化財に指定)


                                         (続く)










当主の随想 Ⅰ ー1ー [吉村家住宅あれこれ]

 

当主が94歳で亡くなって、一年経ちました。

この一年の間、遺品整理をしたりして 懐かしんでおります。


当主が時折 各所に書き残している文書などを読み返すうちに、

もう一度皆さんにも 読んで頂ければと思いがつのり、

一部をブログに転載することを考えました。週2回程度に順次

掲載します。


読みにくいところもありますが、できるだけそのまま転載致します。

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・


  「重文民家の記」ー指定五十周年を迎えて   吉村 堯


    (「日本美術工芸」569号 昭和61年2月1日)


 民家としては初めての指定文化財指定(*1)を、わが家が受けて

から五十年が巡ってきたのを機会に、代々の家族達よりはるかに

長く生きてきたわが家足跡を振り返ってみたい。

もとよりその道に携わる者でもなく、古民家を研究している

わけでもないから、単に わが家の紹介におわりそうであるが、

少なくとも「内なる者」としての私の実感だけは行間ににじむで

あろうと思う。


山からも海からも遠い、河内平野の南部、かっては典型的な農村

地帯であり、日照りの年の水争い以外は眠っているように平和で

あったろう村々のひとつ、河内国丹北郡島泉村がわが家の所在地

である。

東端に雄略天皇陵の円墳を有するこの村は、古く条里制の昔から

存在していたことが実証されている。


わが家の遠い昔の系譜については、伝承する記録の中には残って

いない。

郷土史家の説などによるしかないが、かって大塚山古墳を居城と

していた一族が織田信長の河内攻めにあって、刀を捨て帰農した

ものであるとされている。


後、天正年間には島泉政所(まんどころ・のちの庄屋)を、天領

時代は庄屋を、享保年間よりは丹北郡十八カ村の大庄屋を兼ねて

幕末に至ったことは家蔵文書に明らかである。


(*1 吉村家住宅は旧文化財法で昭和12年に、民家で最初の国宝指定。

           新文化財法で昭和25年に重要文化財に指定)


                                         (続く)