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当主の聞き書き(5) [当主の聞き書き]



(冠婚葬祭の思い出)


 

質)冠婚葬祭で思い出すことは?

答)あまり記憶にない。

質)当主の結婚式は?

答)戦後間もなくで物資窮乏時代だったから質素に小人数で済ませた。

  金屏風を巡らし、雄蝶、雌蝶の盃ごとはあったが。

  年寄りの昔話に聞いたが、赤松の(せきしょう)の伯母が嫁ぐときだったか、その花嫁荷物の先頭が東除川の橋を越えてもまだ最後尾は屋敷内だったそうだ。

質)葬のほうは?

答)赤松の葬儀の時は、甕に入れて輿に乗せてみんなで

  墓まで送った。家の大門がこの時開いた。大門はこんな時しか開かない。


墓は東除川沿いの、むかし小山があった土地で、一人一人の墓が50ほど残っているが、今は村の墓地になっている。父や母の時はもう火葬になった。

  (続く)


当主の聞き書き(5) [当主の聞き書き]



(冠婚葬祭の思い出)


 

質)冠婚葬祭で思い出すことは?

答)あまり記憶にない。

質)当主の結婚式は?

答)戦後間もなくで物資窮乏時代だったから質素に小人数で済ませた。

  金屏風を巡らし、雄蝶、雌蝶の盃ごとはあったが。

  年寄りの昔話に聞いたが、赤松の(せきしょう)の伯母が嫁ぐときだったか、その花嫁荷物の先頭が東除川の橋を越えてもまだ最後尾は屋敷内だったそうだ。

質)葬のほうは?

答)赤松の葬儀の時は、甕に入れて輿に乗せてみんなで

  墓まで送った。家の大門がこの時開いた。大門はこんな時しか開かない。


墓は東除川沿いの、むかし小山があった土地で、一人一人の墓が50ほど残っているが、今は村の墓地になっている。父や母の時はもう火葬になった。

  (続く)


当主の聞き書き(4) [当主の聞き書き]



質)父松坪のことは?

答)郵便局長をやっていた。当時無集配の郵便局(3等郵便局)があって、この郵便局は局長は特別な資格が必要で無く、一定の条件さえ満たせば誰でもやれた。親しい者には切手の値段しか知らない局長さんだとからかわれたくらで、仕事は一切せず。この人も絵だけ描いて暮らしていた。

南画を好まず、本格的に日本画を習いに何か月も京都へ修業に行ったりした。

都路華香先生だった。先生が亡くなってから南画にも親しんでいた。

  質)撫松、赤松、松坪と代々絵を描いてきたが、この家に沢山残っている?

 答)凡そ絵を描く人間で自分の家に絵が残ってるようではダメなんだと

   言っていた。求められて沢山の人にあげていたので、家にはほとんど残っていな い。

 質)無料で描いてあげていた?

答)そう、趣味で描いていたから。特に赤松はお礼に金を持ってきたりすれば機嫌が悪かった。野菜や魚などを持って来れば、「野の宝だ」などと言って喜んでいたと云う。

 父松坪は絵を描く以外の世事には全く恬淡としていた。

   (続く) 




当主の聞き書き(4) [当主の聞き書き]



質)父松坪のことは?

答)郵便局長をやっていた。当時無集配の郵便局(3等郵便局)があって、この郵便局は局長は特別な資格が必要で無く、一定の条件さえ満たせば誰でもやれた。親しい者には切手の値段しか知らない局長さんだとからかわれたくらで、仕事は一切せず。この人も絵だけ描いて暮らしていた。

南画を好まず、本格的に日本画を習いに何か月も京都へ修業に行ったりした。

都路華香先生だった。先生が亡くなってから南画にも親しんでいた。

  質)撫松、赤松、松坪と代々絵を描いてきたが、この家に沢山残っている?

 答)凡そ絵を描く人間で自分の家に絵が残ってるようではダメなんだと

   言っていた。求められて沢山の人にあげていたので、家にはほとんど残っていな い。

 質)無料で描いてあげていた?

答)そう、趣味で描いていたから。特に赤松はお礼に金を持ってきたりすれば機嫌が悪かった。野菜や魚などを持って来れば、「野の宝だ」などと言って喜んでいたと云う。

 父松坪は絵を描く以外の世事には全く恬淡としていた。

   (続く) 




当主の聞き書き(3) [当主の聞き書き]



(当主の個人的思い出)

質)個人的思い出で、まず祖父赤松のことについて

答)赤松は雅号で、本名は彦次郎。私の小学1年の秋まで健在だった。

  地主としての仕事以外に陵墓官をやっていて、人力車に乗って応神陵の

    そばの事務所に出向いていたと聞いている。

質)絵が達者だった?

答)いつも絵を描いていた。人にも教えていた。

質)お茶も?

答)茶道もよくしていた。

   祖父の祖父撫松は富田林の中村家などにもお茶を教えに行っていた。

 中村家に泊りがけで教えに行き、中村家からも泊りがけで 来たりしていた。

 赤松の晩年は抹茶より煎茶を好み、私も小さいのによく飲まされたので、煎茶の味を覚え、他所へ行った時など、このお茶は美味い、不味いというようなこまっしゃくれたことを言っていたそうだ。

質)姿勢正しく高潔な人柄だったようだが?

答)そばに来る人もおのずから姿勢正しくなるような人だった。私も敬語で話していたことを覚えている。

それでも 陵墓官時代、明治天皇が視察に来られた時、お迎えしたが、緊張のあまり一度に両手をあげて敬礼したのを「大失敗」と語り草にしていた。

     (続く)


当主の聞き書き(3) [当主の聞き書き]



(当主の個人的思い出)

質)個人的思い出で、まず祖父赤松のことについて

答)赤松は雅号で、本名は彦次郎。私の小学1年の秋まで健在だった。

  地主としての仕事以外に陵墓官をやっていて、人力車に乗って応神陵の

    そばの事務所に出向いていたと聞いている。

質)絵が達者だった?

答)いつも絵を描いていた。人にも教えていた。

質)お茶も?

答)茶道もよくしていた。

   祖父の祖父撫松は富田林の中村家などにもお茶を教えに行っていた。

 中村家に泊りがけで教えに行き、中村家からも泊りがけで 来たりしていた。

 赤松の晩年は抹茶より煎茶を好み、私も小さいのによく飲まされたので、煎茶の味を覚え、他所へ行った時など、このお茶は美味い、不味いというようなこまっしゃくれたことを言っていたそうだ。

質)姿勢正しく高潔な人柄だったようだが?

答)そばに来る人もおのずから姿勢正しくなるような人だった。私も敬語で話していたことを覚えている。

それでも 陵墓官時代、明治天皇が視察に来られた時、お迎えしたが、緊張のあまり一度に両手をあげて敬礼したのを「大失敗」と語り草にしていた。

     (続く)


当主の聞き書き(2) [当主の聞き書き]



(古文書に残る吉村家住宅の歴史)

質)大坂夏の陣で古い史料が焼けてしまったが、今残る一番古い史料によると  秀吉の時代に吉村家は「政所(まんどころ)」と呼ばれていたそうですね?

答)「政所」というのがどのような仕事をしたのか分からないが、天正19年の文書に残っている。

質)そのころに武士をやめ、帰農したのか?

答)信長の河内攻めの折に降伏して丹下城から低地のこのあたりに移り住んだのではないかと思う。

質)古い絵図面が残っているが、そのころこのあたり全部で十数軒の家しかなかった?

答)天正19年では十一軒だったようだ。 次第に農地、農家が増えていったのだろう。

質)大坂夏の陣の道明寺合戦で屋敷が焼けた?

答)その通り、この屋敷の前身が焼けたことが、近くの明教寺に残っている古絵図面に書入れとして残っている。

質)徳川の世になって、直轄領になった?

答)はじめは天領だった。その後群馬県にある秋元藩の領地になった。秋元家は幕府の老中も務めた家だったがその飛地で河内領といわれ、43カ村ほどあり 西は堺市、北は矢田、瓜破のあたり、南は美原のあたり、東が丹北郡島泉村の辺りであった。その中で入り組み飛び飛びにもあった河内領だが、大きさは本国領地より大きかったともいわれる。

質)吉村家はその43カ村のうち18カ村の大庄屋を受け持ったのか?

答)そうだ。

質)秋元藩に吉村家の過去の歴史を報告しろと言われて報告したことがあったようだが?

答)それには 「古い文書が無く、よく分からない」と回答している。

質)一説には、豊臣の時代に重用されていたので、徳川に慮って過去の歴史を秘したという学者もいるが?

答)それは分からない。

質)大庄屋以外に江戸時代の役職でなにかあるか?

答)雄略陵の管理を代々やっていた。祖父の時代は雄略陵、応神陵ほか十数の御陵、陵墓参考地のお守りをしていた。


(続く)

当主の聞き書き(2) [当主の聞き書き]



(古文書に残る吉村家住宅の歴史)

質)大坂夏の陣で古い史料が焼けてしまったが、今残る一番古い史料によると  秀吉の時代に吉村家は「政所(まんどころ)」と呼ばれていたそうですね?

答)「政所」というのがどのような仕事をしたのか分からないが、天正19年の文書に残っている。

質)そのころに武士をやめ、帰農したのか?

答)信長の河内攻めの折に降伏して丹下城から低地のこのあたりに移り住んだのではないかと思う。

質)古い絵図面が残っているが、そのころこのあたり全部で十数軒の家しかなかった?

答)天正19年では十一軒だったようだ。 次第に農地、農家が増えていったのだろう。

質)大坂夏の陣の道明寺合戦で屋敷が焼けた?

答)その通り、この屋敷の前身が焼けたことが、近くの明教寺に残っている古絵図面に書入れとして残っている。

質)徳川の世になって、直轄領になった?

答)はじめは天領だった。その後群馬県にある秋元藩の領地になった。秋元家は幕府の老中も務めた家だったがその飛地で河内領といわれ、43カ村ほどあり 西は堺市、北は矢田、瓜破のあたり、南は美原のあたり、東が丹北郡島泉村の辺りであった。その中で入り組み飛び飛びにもあった河内領だが、大きさは本国領地より大きかったともいわれる。

質)吉村家はその43カ村のうち18カ村の大庄屋を受け持ったのか?

答)そうだ。

質)秋元藩に吉村家の過去の歴史を報告しろと言われて報告したことがあったようだが?

答)それには 「古い文書が無く、よく分からない」と回答している。

質)一説には、豊臣の時代に重用されていたので、徳川に慮って過去の歴史を秘したという学者もいるが?

答)それは分からない。

質)大庄屋以外に江戸時代の役職でなにかあるか?

答)雄略陵の管理を代々やっていた。祖父の時代は雄略陵、応神陵ほか十数の御陵、陵墓参考地のお守りをしていた。


(続く)

当主の聞き書き(1) [当主の聞き書き]

民家で最初に国宝に指定された吉村家住宅を貴重な文化財として、永年ひとりで守り続けてきた当主吉村堯氏も、今年88歳を迎えることになりました。いろいろ思い出もあるでしょうが、最近は語ることも少なくなっております。 

吉村家住宅に関心をお持ちの方々に、当主の貴重な「家の記憶」を少しでも残しておきた いと考え、「聞き書き」という形式をとり思い出を語ってもらうことにしました。  

           

 (当主が伝え聞いた吉村家住宅の歴史)


質)言い伝えでは、吉村家の先祖は佐々木高綱と聞いているが?
答)そう言われているが確かな資料は残っていない

質)佐々木氏の先祖は敦実親王(近江源氏の祖)と言われているが、その敦実親王と言われる木像が吉村家に秘蔵されており、代々大切に祀ってきたと聞いているが? また正月には敦実親王の掛け軸を毎年掛けているが?

答)親王像は大切に守ってきた。近江源氏の末裔であることは間違いないだろうが、中世の史料が失われているので、はっきりしたことが言えない。


質)中世は豪族であったことは間違いない?
答)間違いないだろうと思う。
質)近くに大塚山古墳という陵墓参考地があって、ここに昔、城を持っていたと言われているが?      
答)大塚山に城があり、「丹下」一族と呼ばれていたことは、何人かの郷土史家の方々が言っている。

質)家紋が近江源氏の家紋に似ているが?
答)丸に四つ目だが、近江源氏の紋は四つ目で、四角の中に窓がある。吉村家の紋は窓が塗りつぶされている。創作紋かもしれない。


当主の聞き書き(1) [当主の聞き書き]

民家で最初に国宝に指定された吉村家住宅を貴重な文化財として、永年ひとりで守り続けてきた当主吉村堯氏も、今年88歳を迎えることになりました。いろいろ思い出もあるでしょうが、最近は語ることも少なくなっております。 

吉村家住宅に関心をお持ちの方々に、当主の貴重な「家の記憶」を少しでも残しておきた いと考え、「聞き書き」という形式をとり思い出を語ってもらうことにしました。  

           

 (当主が伝え聞いた吉村家住宅の歴史)


質)言い伝えでは、吉村家の先祖は佐々木高綱と聞いているが?
答)そう言われているが確かな資料は残っていない

質)佐々木氏の先祖は敦実親王(近江源氏の祖)と言われているが、その敦実親王と言われる木像が吉村家に秘蔵されており、代々大切に祀ってきたと聞いているが? また正月には敦実親王の掛け軸を毎年掛けているが?

答)親王像は大切に守ってきた。近江源氏の末裔であることは間違いないだろうが、中世の史料が失われているので、はっきりしたことが言えない。


質)中世は豪族であったことは間違いない?
答)間違いないだろうと思う。
質)近くに大塚山古墳という陵墓参考地があって、ここに昔、城を持っていたと言われているが?      
答)大塚山に城があり、「丹下」一族と呼ばれていたことは、何人かの郷土史家の方々が言っている。

質)家紋が近江源氏の家紋に似ているが?
答)丸に四つ目だが、近江源氏の紋は四つ目で、四角の中に窓がある。吉村家の紋は窓が塗りつぶされている。創作紋かもしれない。


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