当主の聞き書き(2) [当主の聞き書き]
(古文書に残る吉村家住宅の歴史)
質)大坂夏の陣で古い史料が焼けてしまったが、今残る一番古い史料によると 秀吉の時代に吉村家は「政所(まんどころ)」と呼ばれていたそうですね?
答)「政所」というのがどのような仕事をしたのか分からないが、天正19年の文書に残っている。
質)そのころに武士をやめ、帰農したのか?
答)信長の河内攻めの折に降伏して丹下城から低地のこのあたりに移り住んだのではないかと思う。
質)古い絵図面が残っているが、そのころこのあたり全部で十数軒の家しかなかった?
答)天正19年では十一軒だったようだ。 次第に農地、農家が増えていったのだろう。
質)大坂夏の陣の道明寺合戦で屋敷が焼けた?
答)その通り、この屋敷の前身が焼けたことが、近くの明教寺に残っている古絵図面に書入れとして残っている。
質)徳川の世になって、直轄領になった?
答)はじめは天領だった。その後群馬県にある秋元藩の領地になった。秋元家は幕府の老中も務めた家だったがその飛地で河内領といわれ、43カ村ほどあり 西は堺市、北は矢田、瓜破のあたり、南は美原のあたり、東が丹北郡島泉村の辺りであった。その中で入り組み飛び飛びにもあった河内領だが、大きさは本国領地より大きかったともいわれる。
質)吉村家はその43カ村のうち18カ村の大庄屋を受け持ったのか?
答)そうだ。
質)秋元藩に吉村家の過去の歴史を報告しろと言われて報告したことがあったようだが?
答)それには 「古い文書が無く、よく分からない」と回答している。
質)一説には、豊臣の時代に重用されていたので、徳川に慮って過去の歴史を秘したという学者もいるが?
答)それは分からない。
質)大庄屋以外に江戸時代の役職でなにかあるか?
答)雄略陵の管理を代々やっていた。祖父の時代は雄略陵、応神陵ほか十数の御陵、陵墓参考地のお守りをしていた。
(続く)