t当主の随想 Ⅱ ー1- [吉村家住宅あれこれ]
今回は、昭和54年11月に「吉村家歴代画業回顧展」を開催
した折、同時に作成した 記念文集「絵筆に生きた人々」からの
抜粋です。
堯 の父(画号「松坪」ショウヘイ)、祖父(「赤松・セキショウ)
そのまた祖父(「撫松」ブショウ)いずれれも日本画を良くした人で。
その思い出を綴っている。
(民家というものには、家の美しさなどとは別に 柱の一本一本に
そこに 人が住んでいたという歴史が残っている。
私的なことだが、その思い出も消し去ってはいけないと思う。
かって古い家に住んでいた人達の、人への想い、家への想いの一端を
どうぞ。)
「思ひ出づるままに -赤松・松坪を偲ぶー
吉村 堯
一世紀以上も昔に世を去った撫松については、語り得る直接の
想い出のあろうはずもないが、幼き日々をその膝下に過ごす事の
多かった祖父赤松と、つい先年不帰の人となったばかりの父松坪
については、語り尽きせぬほどの追憶がある。しかし両者には甚だ
しく異なる趣があって、赤松は玉露の如く、松坪は甘露の如くで
あったと言えようか。
明治以前の気骨、風格を伝え、「家長」という名にふさわしい
当主像の最後を飾った赤松は、ただ一つ蜘蛛と雷が大の苦手と
いう弱点を持っていた。 厠から大音声あげて飛び出したり、
遠雷の響きとともにはやばやと離れ部室の臥遊軒から煙草盆を
提げて現れ、主屋の中心部のお家の間にある押入れのなかへ退避し、
雷の遠ざかるころには やすらかないびきが響くというほほえま
しい一幕もしばしばあった。
また、夜食と称して少量の晩食を、倅松坪の世間話を肴に、楽し
み楽しみゆっくりと摂っていた光景も思い出される。
父方の従兄の回想にある下賀茂仮住居の折、お供をして数カ月を
一緒に過ごしたが、そのころ対面した病身の伯母の、ほの白い
面差しを今も思い浮かべることができる。
母方の従兄の文中にでてくる「勲章」(* 1)は、私たち孫どもには
別段の儀式を要しなかった代わり、みごとな格差がついており、
姉たちのはまっすぐ立つことのできないほどの薄い羊かんであるのに
後から行った私にはその何倍もの厚さであった。 それでさえ世間の
厚さの半分にも及ばなかったが・・
(*1 赤松は客があると、客に書画を描くことを所望することが多く、
そのご褒美に羊かん一切れがもらえた。それを皆は勲章と言っていた)
(*2 撫松 1798(寛政10)~ 1869 (明治2)
赤松 1858(安政5) ~ 1934 (昭和9)
松坪 1895(明治28)~ 1977 (昭和52)
(続く)
2022-12-24 17:10