SSブログ

当主の随想 Ⅲー5 [吉村家住宅あれこれ]


「昭和二十六年の大修理のとき、一番熱心に働いたのも、

わたしの母なんです。 役所やら関係方面への陳情も

ひとりで走りまわりました」


吉村さんの母堂タキさんは、十六歳でこの家に嫁入りし、

しうと、しうとめのほか小じゅうとを入れると七人という

大家族のなかで、「気がきかん」といっては、いつも叱ら

れていたそうである。

むしろ気の弱い若奥さんに過ぎなかったが、戦後になると

「この家はわたしが守らんと・・」といい出し、

文化財保護修理の実現へまで事を進めたのである。


しかしタキさんはその過労のためであろう、修理の終わる

前年の二十八年二月十八日、脳溢血のため急逝した。

まだ五十歳という若さであった。


「わたしが保存活動に踏み切りましたのも、母の死があった

からなのです・・」 吉村さんはそこで声を落とした。


縄文時代、男たちは狩猟に出歩き、女たちは竪穴の巣を守り

ながら土器を作った。そんな太古から家を守るのは女だった。

それで、家霊は主婦に憑く・・という。


吉村さんがいうように、今日まで残された民家は古いみんかは、

たいてい女の力で守られてきたのにちがいない。


                     (おわり)


  (読みにくい文章を長い間お読みいただき、ありがとう

   ございました。これで、いったん休載します。

   また機会があれば投稿したいと思います。)


         

当主の随想 Ⅲー4 [吉村家住宅あれこれ]


それから、吉村さんは面白いことをいった。

「古い家はどこでもそうだと思うんですが、こんな古い家を

きょうまで持ちこたえたのは、たいてい主婦の力じゃないでし

ようかね・・」

河内平野の富裕な大庄屋であった吉村家も、明治維新では

武士に高額の金を貸していたのが踏み倒され、困窮した。

近親集まって、家も縮小することにと話し合った。

そのとき、たったひとり反対したのは当時の主婦、「ゆう」

あさんだったという。 「わしは近いうちにお墓にはいって

ご先祖におめにかかるが、家をこわしたとあってはどないいう

て申し開きしたらええか?お前らもそのうちお墓にはいるが

どういう気か?」と粘りぬいた。

これには親戚一同も弱りはて、この家は無事に残されたので

ある。吉村さんの四代前の主婦だという。


ゆうさんは大変な女傑だったらしく、いつも白ハチマキを

しめて台所の長火鉢の前で、立て膝になり、長セルをもって

指図していたという。出入りの者たちはあまりに怖くて顔も

あげられず、ろくに顔を覚えた人もないというほどだから、

よほどすごい女丈夫であったのであろう。こんな女にかかると

たいていおとこなんか歯が立つまい。

                      (つづく)





当主の随想 Ⅲー3 [吉村家住宅あれこれ]


事実、この家が戦前国宝に指定されたときは、はじめ奥座敷

のみを美術工芸品として、部分的に指定する考えだったが、

当時民家の再評価の機運があり、環境も含めた「民家」として

初めての指定となったのである。


欄間の透かし彫りもクギかくしも、デザインがひとつひとつ

ちがう。

奥庭には深々とハゼの落ち葉が散り敷いて、散り残った紅葉が

深紅である。立方体の手水鉢も贅肉がなくていい。


わたしはすっかりいい気分になったが、この家をお守する吉村

さんは大変だろう。

「いやー。この家にうまれたときからきめられたことで、選択

自由はなかったんですし、といっても宿命というはどの暗い

感じも持ってはおりません。

ただ、私生活と古い民家の維持とはきっぱり分けていこうと

思ってます。私生活と別に保存会をつくって、見学料などは、

そちらに入れて維持費や補修費に積み立てております。

でもわたしがこの家の保存に本腰を入れたのは三十台の半ば

過ぎでした・・」


当主の随想 Ⅲー2 [吉村家住宅あれこれ]


縁側の前は白い石を敷いた広い庭になり、前は門長屋で白壁と

障子とがことに真白だ。映画「沈黙」の奉行所の場面はここで

撮影された。

最寄りの近鉄恵我ノ荘駅で降りても、吉村邸は集落の中にかく

れており、道は細くまがりくねって、いささかわかりにくい。

それをいうと、吉村さんは「標識を出してやろう行ってくださ

る方はいろいろあるんですが、おことわりしてるんです。

観光バスできていただくところではありませんし・・ そのか

り何時間でも、一日じゅうでもくつろいでいただくところだ

うんです。 古い民家というのは・・」


大賛成だ。京都や奈良の名所のように、観光バスで繰り出して、

彫刻やら建築の部分やら庭やらを見て、さっとかえってゆくと

いうようなところではない。集落のまがりくねった細い道を

たずねながら、おとずれるべきところであろう。


そして、専門の学者はべつとして、なにひとつ手を抜くことの

なかった先人の生活の造形に全体としてふれることだと思う。

そこにはもう現代建築には求めることのできない歴史観が浄化

されて残っている。そのなかでばらぶら遊ぶのがよろしかろう。


                    (つづく)










当主の随想 Ⅲー2 [吉村家住宅あれこれ]


縁側の前は白い石を敷いた広い庭になり、前は門長屋で白壁と

障子とがことに真白だ。映画「沈黙」の奉行所の場面はここで

撮影された。

最寄りの近鉄恵我ノ荘駅で降りても、吉村邸は集落の中にかく

れており、道は細くまがりくねって、いささかわかりにくい。

それをいうと、吉村さんは「標識を出してやろう行ってくださ

る方はいろいろあるんですが、おことわりしてるんです。

観光バスできていただくところではありませんし・・ そのか

り何時間でも、一日じゅうでもくつろいでいただくところだ

うんです。 古い民家というのは・・」


大賛成だ。京都や奈良の名所のように、観光バスで繰り出して、

彫刻やら建築の部分やら庭やらを見て、さっとかえってゆくと

いうようなところではない。集落のまがりくねった細い道を

たずねながら、おとずれるべきところであろう。


そして、専門の学者はべつとして、なにひとつ手を抜くことの

なかった先人の生活の造形に全体としてふれることだと思う。

そこにはもう現代建築には求めることのできない歴史観が浄化

されて残っている。そのなかでばらぶら遊ぶのがよろしかろう。


                    (つづく)










当主の随想 Ⅲー1 [吉村家住宅あれこれ]

 

     作家足立巻一氏(*1)と当主の対談から、吉村家の

   主婦ことに話が弾んだのを記録されています。

          (関西電力発行 「ひらけゆく電気」

                   1972年12月号 より)

                       


         吉村邸の主婦たち

               足立巻一


  羽曳野市島泉の吉村邸は、重要文化財の民家としてあまり

にも有名だし、また、日曜、祝日には公開されている(*2)けれ

ど、大阪近郊で ここほど気分の静まるところもすくないという

ことは、存外に知られていないのだはないか? 


 こんどたずねた初冬の日曜日は、ことに天気がよくて、長い

白壁の塀の上には ハゼ紅葉が燃えていた。

主屋のカヤぶきの大屋根は急勾配をなして正午の日光をたっ

ぷり吸い込んでいたし、壁や障子は真っ白く陽ざしを照り返し、

木目のの浮いた太い格子はくっきりした影を描いており、

それらの形、色がそれぞれに光線を受けてやわらかく、しかも

きびしく調和している。


主屋は元和元年(1615年)の大坂夏の陣の兵火で焼けた

あとすぐに建てられたといわれるので、三百五十年ほどの歴史

を持つことになる。

もっとも、そののちいろいろ改造、増築されたのを、昭和二十

六年から三年間にわたる文化財保護修理で、建造当時の原型に

復元されたものだ。


その縁側で日なたぼっこをしながら、吉村堯さんと話し込んだ。

                               (続く)


(*1)足立巻一氏:1913~1985

          大阪芸大教授 小説家

          作品 :「親友記」「やちまた」「日が暮れて

                                        から道が始まる」 「足立巻一詩集」 

                                        など多数 

(*2)1972年当時は 日、祝日公開だったが、今は年2~3回

                   公開 (特別見学希望にはご相談に応じています)





当主の随想Ⅱー8- [吉村家住宅あれこれ]


中学生のころに自作の下手な俳句を短冊に書いて見せたら、

ひどく感心して飛び切り上等の硯を大小二つ分けてくれたこと

があった。

そのころ、もしやしびれの切れるのを我慢して祖父の傍らで

墨を磨る労をいとわなければ、祖父はきっと孫のためによろこ

んで画布をしめしてくれていたことであろう。

欲が無かったのか、祖父の絵の雅味を理解できなかったのか、

墨も磨らずおねだりもしなかったから、私の手許には直接入手

した祖父の絵はついぞないままに終わったのである。


それにしても、西日の差し込む臥遊軒の夏の日暮れどき、汗を

たらながら かしこまって羊かんをいただいていた少年の日

のことが、まるでつい今しがたのように思い出されてならない

のである。


 おほちちの画室に通う仄ぐらき廊下の冷えをふみつつなげく

 幾世々をあり経し廊のおのずから雑木紅葉をうつすつやめき

 住みつぎし幾もも年の祖たちの命にかよふ廊の光か

 軒深く朝の陽のさす古家に二夜いねたり幼き日のごと

                      (同前)


 祖父とは正反対に、松坪叔父は愛情表現が極端に明けっぴろ

げであった。西洋人のように抱擁したり頬ずりしたりして、

身体ごと私たちを愛撫した。子ども心に気はずかしいくらい

オーバーだったのに、それがちっとも不自然に見えなかったの

は、やさしくて善良人柄のせいであったろう。


つつましやかで万事に控えめな母と、無邪気で子どもっぽい

叔父の 姉弟の仲の良さも人目をひいた。


私たちは沢山の人々のいっぱいの愛を受けて、しあわせな

少年時代を送ったものだと思う。


その後の人生は、私たち両家の孫どもにとって、決して坦々

たるものではなかったが、今こうして昔の人のなつかしい

面影を思いうかべていると、和泉と河内の血縁の深さを思い

知らされる気がする。

そのようなつながりも、いとこ同士の世代で終わりはすまいか

という不安がよぎる。

それは母や祖母の年齢よりもはるかに長く生きてしまった

わが身の老いをいとおしむ淡々とした無常感とも重なるので

ある。


一期一会ともいう。行雲流水ともいう。そのどちらもが人の

世のまじわりなのであろう。

今この時に父祖の回顧展がひらかれることの人生的な意味は、

私たちにとって この上もなく大きいのである。

                 (同志社大学文学部教授)


  (これで、昭和54年の「絵筆に生きた人々」関連の記事を終わります)












当主の随想Ⅱー7- [吉村家住宅あれこれ]


母が島泉に帰るとき私たち末の子どもを同伴しないことは、

おそらく一度もなかった。

とくに長い夏休みの殆どをそこですごすことをが恒例となって

いたから、母の帰った後でも、吉村邸はわがもの顔にふるまえ

気ままなすみかであった。


それにしても、母の帰郷はそんなに始終あるわけではなかった

から、祖父や祖母が愛する一人娘と、その子たちに示す歓待

ぶりは、どんなに熱いものであったことか。

納戸の陰でこっそりお八つを食べさせらりたりもした、

そんな祖母偏愛が、いとこ達への気持ちの負い目に知らず

知らずになっていたことなど、今だから書いてもいいだろう。


それは、嫁家先での心労の多い一人娘へのふびんさといたわり

の、裏返しであったのだから、みんな大目に見てくれるだろう。


けれども祖父の場合は少し事情がちがった。祖父には風貌にも

気質にも一徹な古武士の風格があった。

世間知らずで、案外無邪気なところがあったけれど、愛情の

表現がぎこちなくて幼い孫たちの気おくれと面映ゆさを誘った。


そんな祖父が時折思い出したように、臥遊軒(祖父の画室)へ

外孫を呼び寄せ、到来物の羊かんを大切そうに切って食べさせ

ことがあった。けれども、とっておきの羊かんが こちこち

に乾いていたりかびくさくなっていることに気がついて

いなかったか、頓着しなかったのか、どっちにせよ、正座して

羊かんをいただくときの、有難迷惑といっては無かったので

ある。

                                  (つづく)








当主の随想Ⅱー6- [吉村家住宅あれこれ]

(続いて、同文集の寄稿から)


        祖父の死と茶粥と

            里 井 陸 郎 (赤松の孫)


  私は 母と祖父のどちらの死に目にも会えなかった。

遠い田舎の高等学校に在学して、危篤の知らせを受けて、

帰るのに半日以上もかかったからである。


 母は私が十七歳の年、晴嵐の吹く晩春の日に京都で他界し、

それから二年あまり後、秋深い河内野の朝、祖父は母の後を

追った。

心臓の発作で苦しんだ母とは違って、老衰の安楽な往生で

あった。

「陸ボンさんをずっと待ってはったんや」梅廼家のおとみが

勝手な想像を言って私を慰めた。


  秋つ陽のかがよう野路を帰り来て瞳を凝らす土間の暗みに

  船酔いに食うべ来ざりし朝飯のをそきをはめり涙ながれて

  とろとろと熱き茶粥をすすりつつ涙ながれていたりけるかも

  なげきつつ茶粥をすする厨辺の天窓の上の深き空かも

  厨辺に膳片寄せてわがすする茶粥は秋のさびしさなるも

  蒼き空果てしもあらずふかまりて秋の最中のわがなげきかも

                   (昭和十七年作)

           祖父の死を詠んだ後年の連作である。



 その日の朝は空が澄みきっていて、夜の船旅に眠りの足り

なかった私の眼には陽の光が眩ゆすぎた。そして、あの冷え

冷えとした上がり框の土間に佇って、しずもった家の気配を

たしかめようとした時の、立ち昏みにも似た一瞬の暗がりの

ことが、いまだにありありと思い返されてくるのである。 


そして、この暗がりの記憶は、高鷲駅とか後には恵我之荘の駅

ら野路を越えて吉村邸にたどりつくときの、いつものあの

「母の生家」の感触そのものに違いなかった。

奥まった軒の深い庇からとどく光は乏しいが、そこには、

私たち母子を待ち迎えている安らかなぬくもりがあった。


息を吹きふき啜った茶粥のなつかしい味と香りは、今も身に

沁みついてはなれない。

                      (つづく)









  


 

当主の随想Ⅱー5- [吉村家住宅あれこれ]


大正の末、大家族の紐帯であり、私達外孫のアイドルでもあっ

祖母が急逝してから祖父は俄かに気落ちしたようであった。


叔父 松坪のひたむきな孝養と、赤松の画業への執念が赤松を

立ち直らせた。


しかし、祖父の愛は、離れ住むことの久しい一人娘である

私たちの母に傾斜していった。

そしてついに、昭和の初年、京都下賀茂に隠棲していた私の

父母の近くに、比叡山を望む借家を 仮住まいの場所ときめ、

お手伝いを連れて祖父は移り住むことになった。

 僅か三カ月程であったが。


生家を離れて他郷に住むなど、祖父の生涯にかってなかった

ことである。

嫁してのち、子供たちのように自由に生家に往来できなかっ

た母にとってもまた、このことは父との千載一遇の機会であ

った。

 祖父と母とは毎日のように会った。


母とは一回りも年が違うたった一人の弟で、私たちも生涯

「兄ちゃん」と呼び続けた叔父 松坪もまたしばしば二人の間

に介在して、母の背を撫で、肩を抱くようにして、二人の逢瀬

を助けた。


三人とも天上にあるいま、束の間とは言え、おそらく酔うよう

至福の境地に、親子,姉弟をおかしめてくれたであろう、

あの瞬間、瞬間について、神々に感謝しないではいられない。


心臓の悪かった母はその後二年足らずで四十九年の短い命を閉

じるのだが、逆縁に遭うことになった祖父の落胆は、はた目に

無残であったらしい。


二年半ののち娘のあとを追うことになるのだが、

それにも拘らず気力をふるって、終焉の直前まで絵を描き続け、

ひととき画業を止めたことは聞かなかった。


それどころか、筆力はいよいよ充実し、絶筆となった、松を描

いた屏風の水墨は、絵を解しない私にも感銘を与えるほど雄渾

あった。

それは祖父の死の床をめぐってさかしまに置かれていたが、

南画と共に生き抜いた祖父の生涯の象徴のごとくであった。


ちなみに「吉村家歴代画業展」に出展された遺作のうち

「柳蔭垂釣」と題する晩年の南画は、私が祖父の傍らで墨を

すり、描いてもらったものである。

「お前には勿体ない」と言って、赤松翁の絵を誰よりも愛でた

私の亡父に横取りされていたものである。

               (関西国際空港ビルデイング社長)