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当主の随想Ⅱー7- [吉村家住宅あれこれ]


母が島泉に帰るとき私たち末の子どもを同伴しないことは、

おそらく一度もなかった。

とくに長い夏休みの殆どをそこですごすことをが恒例となって

いたから、母の帰った後でも、吉村邸はわがもの顔にふるまえ

気ままなすみかであった。


それにしても、母の帰郷はそんなに始終あるわけではなかった

から、祖父や祖母が愛する一人娘と、その子たちに示す歓待

ぶりは、どんなに熱いものであったことか。

納戸の陰でこっそりお八つを食べさせらりたりもした、

そんな祖母偏愛が、いとこ達への気持ちの負い目に知らず

知らずになっていたことなど、今だから書いてもいいだろう。


それは、嫁家先での心労の多い一人娘へのふびんさといたわり

の、裏返しであったのだから、みんな大目に見てくれるだろう。


けれども祖父の場合は少し事情がちがった。祖父には風貌にも

気質にも一徹な古武士の風格があった。

世間知らずで、案外無邪気なところがあったけれど、愛情の

表現がぎこちなくて幼い孫たちの気おくれと面映ゆさを誘った。


そんな祖父が時折思い出したように、臥遊軒(祖父の画室)へ

外孫を呼び寄せ、到来物の羊かんを大切そうに切って食べさせ

ことがあった。けれども、とっておきの羊かんが こちこち

に乾いていたりかびくさくなっていることに気がついて

いなかったか、頓着しなかったのか、どっちにせよ、正座して

羊かんをいただくときの、有難迷惑といっては無かったので

ある。

                                  (つづく)








当主の随想Ⅱー6- [吉村家住宅あれこれ]

(続いて、同文集の寄稿から)


        祖父の死と茶粥と

            里 井 陸 郎 (赤松の孫)


  私は 母と祖父のどちらの死に目にも会えなかった。

遠い田舎の高等学校に在学して、危篤の知らせを受けて、

帰るのに半日以上もかかったからである。


 母は私が十七歳の年、晴嵐の吹く晩春の日に京都で他界し、

それから二年あまり後、秋深い河内野の朝、祖父は母の後を

追った。

心臓の発作で苦しんだ母とは違って、老衰の安楽な往生で

あった。

「陸ボンさんをずっと待ってはったんや」梅廼家のおとみが

勝手な想像を言って私を慰めた。


  秋つ陽のかがよう野路を帰り来て瞳を凝らす土間の暗みに

  船酔いに食うべ来ざりし朝飯のをそきをはめり涙ながれて

  とろとろと熱き茶粥をすすりつつ涙ながれていたりけるかも

  なげきつつ茶粥をすする厨辺の天窓の上の深き空かも

  厨辺に膳片寄せてわがすする茶粥は秋のさびしさなるも

  蒼き空果てしもあらずふかまりて秋の最中のわがなげきかも

                   (昭和十七年作)

           祖父の死を詠んだ後年の連作である。



 その日の朝は空が澄みきっていて、夜の船旅に眠りの足り

なかった私の眼には陽の光が眩ゆすぎた。そして、あの冷え

冷えとした上がり框の土間に佇って、しずもった家の気配を

たしかめようとした時の、立ち昏みにも似た一瞬の暗がりの

ことが、いまだにありありと思い返されてくるのである。 


そして、この暗がりの記憶は、高鷲駅とか後には恵我之荘の駅

ら野路を越えて吉村邸にたどりつくときの、いつものあの

「母の生家」の感触そのものに違いなかった。

奥まった軒の深い庇からとどく光は乏しいが、そこには、

私たち母子を待ち迎えている安らかなぬくもりがあった。


息を吹きふき啜った茶粥のなつかしい味と香りは、今も身に

沁みついてはなれない。

                      (つづく)