当主の随想Ⅱ-4- [吉村家住宅あれこれ]
(続いて、同記念文集に寄稿の一人より)
回 想 の 赤 松 翁
里 井 達三良 (赤松の孫)
私の兄弟誰もがそうであったが、とくに私は物心ついてから
小学校に上がるまでの期間の殆どを、われわれが「河内」と
呼んでいた、母方の祖父の家で過ごした。
たまさか、「和泉」の生家へ帰ると、自然に河内弁が出て、
皆から「河内の子」とからかわれたりした。
「河内」は私たち外孫の宝であったし、「河内」でのお目当て
は祖母と叔父松坪(ショウヘイ)とであった。
終日「臥遊軒」と呼ばれた離れの画室に端座して画業に精進
する祖父赤松(セキショウ)は、子供心にも苦手であった。
国宝に指定され、解体復元されて今は無くなった懐かしい大き
な台所に君臨して、大家族の家計を切りまわしていた強く優し
い祖母の周辺には、いつも花園のようなかぐわしいふんいきが
漂っていた。
この花園と凛然たる画室との間を常に連携するのは、
「愛情の人」叔父松坪だったのでである。
幼いころの私の記憶に残る祖父赤松の最初の俤は海軍士官の
ような制服に短剣を吊った長身痩躯の、陵墓官としての姿で
あった。
祖父は時折、人力車に乗って近くの雄略帝陵をはじめ近隣の
御陵を見回っていたようである。私は雄略天皇陵の堀の前の
坂道を人力車で帰ってくる祖父を迎えに出た記憶がある。
また陵墓官時代の祖父の有名な逸話として、明治天皇が御陵
巡拝に行幸された折、慣れない敬礼の仕方に迷い、左右の手を
一挙にあげたというユーモラスな話が伝えられている。
天皇を尊崇する念の強烈であった祖父としては、千慮の一失で
あったろう。(*1)
祖父は尊王の志が篤く、国学者のように謹厳な人であったが、
一面ユーモアを解する人だった。
年中火鉢に炭火を活けて玉露をたしなみ、夜は晩酌を楽しん
だが、時折呼ばれて、汗をかきながら苦い茶を飲まされ、話の
相手をさせられることがあった。中学生のころだったか、
おもしろい話はないか、というので、落語で聞いた相撲の話を
したことがある。
「関取、関取、今場所の相撲はどうでごんした。-勝ったり
負けたりでごんした。-それは結構なことでごんしたな。
ーいやいや、 向こうが勝ったり、こちらが負けたりでごんし
た」というようなやりとりが重ねられて、「今場所は土つかず
でごんした。-休んでばかりでおりゃんした」
で終わる 他愛もない話に、祖父は膝を打って高笑いし、
その後も「達公あれやってくれ」と何回となく催促された。
膝を打って笑うのは祖父の癖で、全身で笑う無邪気な姿は、
逆境の中でも、生涯変わることはなかった。奇妙なことだが、
祖父の笑顔を思い出すたび、私は今でも涙ぐむことがある。
(つづく)
(*1 明治天皇の巡拝は明治10年、その時赤松は20歳)
2023-01-26 18:33