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当主の随想Ⅱー8- [吉村家住宅あれこれ]


中学生のころに自作の下手な俳句を短冊に書いて見せたら、

ひどく感心して飛び切り上等の硯を大小二つ分けてくれたこと

があった。

そのころ、もしやしびれの切れるのを我慢して祖父の傍らで

墨を磨る労をいとわなければ、祖父はきっと孫のためによろこ

んで画布をしめしてくれていたことであろう。

欲が無かったのか、祖父の絵の雅味を理解できなかったのか、

墨も磨らずおねだりもしなかったから、私の手許には直接入手

した祖父の絵はついぞないままに終わったのである。


それにしても、西日の差し込む臥遊軒の夏の日暮れどき、汗を

たらながら かしこまって羊かんをいただいていた少年の日

のことが、まるでつい今しがたのように思い出されてならない

のである。


 おほちちの画室に通う仄ぐらき廊下の冷えをふみつつなげく

 幾世々をあり経し廊のおのずから雑木紅葉をうつすつやめき

 住みつぎし幾もも年の祖たちの命にかよふ廊の光か

 軒深く朝の陽のさす古家に二夜いねたり幼き日のごと

                      (同前)


 祖父とは正反対に、松坪叔父は愛情表現が極端に明けっぴろ

げであった。西洋人のように抱擁したり頬ずりしたりして、

身体ごと私たちを愛撫した。子ども心に気はずかしいくらい

オーバーだったのに、それがちっとも不自然に見えなかったの

は、やさしくて善良人柄のせいであったろう。


つつましやかで万事に控えめな母と、無邪気で子どもっぽい

叔父の 姉弟の仲の良さも人目をひいた。


私たちは沢山の人々のいっぱいの愛を受けて、しあわせな

少年時代を送ったものだと思う。


その後の人生は、私たち両家の孫どもにとって、決して坦々

たるものではなかったが、今こうして昔の人のなつかしい

面影を思いうかべていると、和泉と河内の血縁の深さを思い

知らされる気がする。

そのようなつながりも、いとこ同士の世代で終わりはすまいか

という不安がよぎる。

それは母や祖母の年齢よりもはるかに長く生きてしまった

わが身の老いをいとおしむ淡々とした無常感とも重なるので

ある。


一期一会ともいう。行雲流水ともいう。そのどちらもが人の

世のまじわりなのであろう。

今この時に父祖の回顧展がひらかれることの人生的な意味は、

私たちにとって この上もなく大きいのである。

                 (同志社大学文学部教授)


  (これで、昭和54年の「絵筆に生きた人々」関連の記事を終わります)